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天海あきらと「鬼になる」ということ

ウチは批評というよりは感想を書いてるつもりだから、余程の言いたいこと以外は軽めに書いてて、それでも一応ニュアンスだけはなんとか伝わるように言葉と書き方は選んでるつもりなんですが、読んでて伝わらないのならまあそれも仕方がないかというところで。リンクは自分のブログの感想からなので必要な方は公式で確認して下さい。


11/30の記事にあきらの弟子辞退が唐突だというコメントを頂いたので、ちょっとその返事を。
41の巻の感想を見ててあきらが弟子を辞めることに納得できない人がかなりいたようで、大体が「唐突」だとか「心情が判らん」とかだったんですが、そんなことはないと思うのですが。
確かに細かいところを見ていけばそもそもの弟子入りの経緯からしてどういう経緯だったのかと思わざるを得ないところがあるので、たぶん本当のところはちゃんと考えてないのかなと思ってます。メインキャラに対してそこまで描く必要のないキャラとしてですけどね。
響鬼に関しては感想を書く以上2〜3回は見返してるんですが、それで普通に読み取れることに多少の脳内補完をして見ています。公式とかそんなに確認しなくても自分としては一応伝わってはきてると思うので…という上での自分なりの解釈ではありますが。


前半のあきらの鬼の弟子としての描写は10の巻魔化魍に対して「人殺し」といったくらいしか記憶にないので、そういうキャラだとしか設定してなかったのかも知れません。後半、高寺Pのプロットを白倉Pがかなり変えたんではないかということも聞いているんでどこまでが元の高寺構想だったのかは判りませんが、明日夢と京介の弟子入りの話をやるにあたって、「鬼とは」「なぜ鬼になるのか」ということを考えなければならなくなったときに、もう一度あきらの話にけじめを付け、尚且つ後半のテーマを煮詰めるために「あきらが鬼を諦める」という話にしたのでしたら、それはそれであきらの心情としても物語の表現としても間違ってはないと思うのです。


後半に入ってからあきらの心情はイブキや明日夢、京介、もっちーとのやり取りの中でかなりの頻度で出てきています。
話数までは今調べられませんが、明日夢や特にもっちーといるときにいつになく楽しそうだったり、京介に指摘された自分の鬼に対してのあいまいな気持ち(それを指摘すること自体はドラマ的に強引ではあるけど)から両親を殺された事をだんだん思い出さなくなっているとか、鬼以外の道があると言うことにほっとしているということをイブキに話したりとか、朱鬼と出会うまでにそれなりに自分の中で「鬼になること」について考えていたんではないかと思います。
そこに朱鬼が現れたのはあきらにとっては渡りに舟の出来事ではあるけど、視聴者にとっても明日夢と京介の弟子入りを考えるための大きな転換期だったと思います。(36の巻
「なぜ鬼になるのか」「鬼であるということはどういうことなのか」をヒビキ、ザンキ、イブキがそれぞれ語り、言い方こそ違うけどそれらは「強大な力で弱きものを(人を)守ることである」ということが示されています。同時にそれは鬼としての仕事の判断を迷わすような「私怨」であってはいけないとも言っています。憎しみを捨てろということがそれですね。
多分、朱鬼(はどうか判らないけど…鬼になってから親を殺されたという可能性もあるわけだし)やあきらのように肉親を殺された恨みから鬼になる人間は多いのではないかと思います。ようするに魔化魍に襲われて生き残った人間の取る道ということで。
でもその憎しみは越えること出きるからイブキはあきらを預かったのだと思うし、36話でのイブキとあきらのやり取りは若干深読みすれば、そういう話はあきらが弟子になったときからしているし、イブキの方は宗家の跡取りということで憎しみで鬼になった人間の話を幼いころから聞かされていたんではないかと思うのです。実感しているかどうかは別として。逆に言えば実感していなく、それを補えるだけの人生経験を持っていなかったのであきらには伝わらなかった…ともいえるのではないかと思うのですが。
あきらも今までもさんざん言われてきたであろう「憎しみを捨てろ」「憎しみで鬼になってはいけない」は頭の中では判っていると思うのですが、それを無くしてしまうとあきらにとっては鬼になる理由がない。鬼をリタイヤした努(25話〜)のように「鬼になれなくても人助けは出きる」とは思えないのは、努と違って鬼になる動機の出発点が違うのでしょう。実際師匠や先輩鬼にもそれを否定されているわけだし、じゃあ自分はどうしたいかと思ったときに同じ理由で戦っている朱鬼が現れ、縋ってしまったのは仕方ないことだと思います。でもあきらの真面目な性格からいったら、やはりそれは間違ってるとは判っているのだと思います。だからこそ一度朱鬼についていってしまった自分を許せなくてイブキのところに戻れないのかなとも思ったし。


それよりもここであきらには全く鬼になる理由がなくなっているのですね。鬼としての修行を2年間もしていながらあきらが憎しみを捨てられなかったのは、表面的にはどうか知りませんが「人助けをする仕事である」という意識は全く無かったのだと思います。ノツゴを倒すという目的がある朱鬼と違って、鬼になって魔化魍を倒すこと自体が目的だったあきらのモチベーションは、まさに鬼になるための自己鍛練です。まだ幼い少女の盲目さで憎しみを糧にそれに突き進んで行ったとしても、それは長続きするものではないだろうし、友達が出来て日常生活の楽しさを知ったらその動機が薄れていくのは仕方がないことだと思います。
師弟でその山を乗り越えられなかったといいますが、この話ではイブキとあきらの抱えている悩みは全く違うものであって、二人して乗り越えるというものではないと思います。あきらの悩みは前述しているように「憎しみ以外で鬼になるモチベーションが持てないこと」であって、イブキは「自分が未熟であったために弟子を指導できなかった」(39の巻)であるので、それぞれが解決したときに初めてこの師弟は元の鞘に納まるのであって、あきらが鬼を続けられないと思った時点でどうやっても元には戻らないということです。それは強制することも説得することも出来ないことです。事実39の巻でイブキはあきらに対して「自分で考えろ」なことは言ってますが説得はしていません。あくまでもあきらとイブキの悩みは違うし、イブキはこの話で解決の糸口は見付けたけれど、あきらの悩みはあきら自身が解決して決めるしかないし、それはイブキがあきらと同じ立場で悩んでいるというのを知っても、あきらの悩みとは別問題なのです。ただ36話でイブキに言った「自分とイブキさんは違っている」ということに対してのわだかまりがなくなっただけで。
とまあ、40の巻までにそういう前振りがあったということで、あきらの弟子を辞めるという話になるのですが、唐突ですか?これって。


その結果あきらが選んだ道は「鬼になるのを辞める」ことで、その踏ん切りとして明日夢と京介に自分が教わったことを伝えたかったのではないでしょうか。ちなみにもう少し深読みすると、あきらが教えたいと思ったのは、「鬼になるというのはどういうことなのか?」ということを考えていたあきらにとって、明日夢と京介の動機は些か納得できないものであったのかも知れません。
鬼とは劇中で何度も言っているように「人助けをする職業」です。そのモチベーションは警官や消防士のように「自分の命を省みず人を助けるけど、自分も生きて帰る」ことが前提の「仕事」です。ヒビキさんのいう「鍛えてます」はそのための「手段」として肉体・精神を鍛えることであって、本来それ自体が「目的」であってはいけないと思うのです。(余談ですがこのことを考えるときにどうしても「め組の大吾*1のことを考えてしまうのですが、主人公・大吾が辿る人助けとは?というモチベーションのあり方が鬼というかヒビキさんに通じるような気がするのですが…もちろん大吾のキャラはヒビキさんには被ってませんが)
だからこそ、憧れや自己実現で鬼になりたいといっている(どれくらい本気かは判りませんが。あきらにも判ってないと思う)明日夢や京介に、そのことを伝えたかったんではないかと思ったのです。それで二人が鬼になれば、あきらの鬼の修行をした2年間と「なぜ鬼になるのか」と考え悩んだことは無駄じゃなかったと思えるのではないでしょうか。(これは技術的なことではなく、どちらかというと精神的な教えだと思うのですが)


付け足しですが、ここでイブキがあきらの「二人を弟子に…」を後押ししたことは、イブキにはそれを後押しするだけの判断材料がないのでおかしいと思うのですが、宗家の跡取りとして最近鬼のなり手が少ない(小説版)ことに心を痛めているのかも知れないし、ヒビキが弟子を取らないことを責めた手前もあるし、何より理由はどうであれ弟子をやめなければいけなかったあきらの心情を察して(あきらが弟子をやめるということは結局憎しみを乗り越えられなかったということだから)二人を後押ししてあげたのかなと思うので、その辺は特に問題ないと思います。多分弟子になったからといって鬼になれるとは限らないのを誰よりもよく知っているのはイブキではないかと思うので。
細かい演出等に関しては、セリフひとつで説明できることもあると思うけど、メインキャラ絡みの話の流れを取ったということでいいんではないでしょうか。暴走トラックはもうちょっとやりようがあったとは思うけど、香須実に関しては前半から猛士らしからぬ言動が目立つので今更だと思います。
明日夢の弟子入りに関しては納得いかないことも多いんで別の機会に言及するつもりなのですが、「ヒビキさんカッコイイ」で弟子入りしちゃって、考えるのはあとからという普通のヒーローもののパターンでも、それはそれで良かったような気はします。子供向けヒーロー番組が子供向けヒーロー番組のフォーマットに則って展開しても、それを責められる所以はないと思いますから。


とまあこんなところでしょうか。あくまで私見ということですが。

あと一応、あきらの心情に言及しているブログということで
はすはなちゃろぐ http://d.hatena.ne.jp/lotustea/20051127/1133100474
あきらの鬼になりたいという気持ちが「呪い」であるということには同意。(もちろん555の「夢は呪いに似ている」ということからです)


もう一つついでの付けたしですが(他に書く機会なさそうなので)、鬼であるということが人より優れた力を持つことであるとするならば、それが個人として暴走しないための枷が「仕事である」ということであり、「猛士という組織」ではないかと思います。過去にそういうことがなかったとも言い切れないし、朱鬼のようなケースもあるのでそのための「鬼払い」ではないかという考えもできるのではないかなあ。

*1:主人公の朝日奈大吾は子供の時に火事で消防士に助けられた事から、自分の中の「ヒーロー」である消防士を目指すが、危険察知能力に優れすぎていたために自分は人命救助よりも、危機的状況に身を置くことが喜びなのでは?ということに悩み、それを乗り越えるという物語。ストーリー的には大吾の天才的な危機察知能力を描くことでドラマを作り上げているんですが…。