そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

ザンキさんの死は必要か?

ブログでもあちこちで見かけたし、二三の響鬼同人誌でも見かけたんだけど、ザンキさんの死は必要かどうか、あるいは意味があったのかどうか。某所でそういう問い掛けがあったんでちょっと考えてみた…んだが、書いたはいいけどさて、あげたものかどうしようかと思っていたら、こういうエントリを見つけたんであげてみた。

斜角の視線。「斬鬼さんは三度死ぬ」http://d.hatena.ne.jp/kka/20060101/1136117475


ザンキさんの死が必要かどうか。オレの印象だと物語のためではなく、響鬼という1年間放送された番組のために必要だったと思います。
というのは元々この物語の主人公である明日夢とヒビキさんの話が結局物語を引っ張るに至らなかったために、番組の最後を飾るに相応しいエピソードとして弦師弟の話を持ってこざるを得なかったように思うからです。


トドロキは後半で何度も自立エピソードをやったにも関わらず、真の意味で自立したように見えなかったのももしかしたらそのためなのかなあと勘ぐってみたり。本来なら39話の「始まる君」で自立完了と見てよかったはずなんだから。
普通に考えたら、ザンキさんがいなくなれば(例えば当初の予定通り後進の指導として吉野に行ってしまうとか)トドロキも自然と自立するはずなのに、後半ではもうそんな時間的余裕がなかったせいか、もっと厳然たる別れとして「死」というものを使って「物語の」ではなく「番組の」クライマックスとしてより相応しいドラマチックな演出として機能させたのではないかな、と思うのです。
となると「物語的には特に必要なかった」けど、「番組としては必要だった」ってことになると思うのですね。


その必要な死のために朱鬼譲りの反魂の術を使ったり、直接的な原因が足の傷ではなく過去に受けた胸の傷であるとか(この場合足の傷が医者に通うというカモフラージュに使える)細かく伏線を設定されているので、後半の新スタッフは当初からこのクライマックスを物語のドラマとして必要なことだと考えていたのだと思います。後半、朱鬼の話といい陰陽環といい妙に呪術的な描写があったのはそのせいだったんだなあと。
そのように番組を盛り上げるために必要な死であったとすれば、物語上の整合性やキャラ萌えで見ていたファンからすれば「意味がない」「必要だったのか?」「無駄」という意見が出てきても不思議はないような気もします。
でもオレは前述の通り、意味はあったと思います。人が死ぬのがいい悪いではなく、最後に盛り上がらないドラマはつまらないと思うからね。ちょっと誤解を招きそうな言い方だけど、そう思います。それに対して納得できるかどうかはまた別の話ではあるけれど。
盛り上げる手法については、それこそ此処でそれを問う意味はないと思うので不問ということで。


書きっぱなしだけどこんな感じで。



ちなみにここのブログの仮面ライダーTHE FIRSTについての考察も興味深いです。特に

そう、「仮面ライダー THE FIRST」で僕たちが観たのは、「本郷猛のドラマ」ではなく、「仮面ライダーが存在する世界」だったのだ。テーマは「“仮面の戦士”となった者の苦悩と葛藤」ではなく、「いかなる理由(正義)があろうとも、暴力を奮えば小さな花を踏みつぶす」という矛盾。このような矛盾は、石ノ森章太郎のマンガではおなじみのテーマだ。スタッフは「仮面ライダー」の再誕にあたり、この矛盾を「神髄」としていたのである。

はちょっと面白いですね。