そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

ドラマは誰のため?

考察文を書くといろいろグルグルしてうまく的確なことを書けないのですが、判りにくいのはカンベンてことで。

ここんとこちょっと「ドラマの見方」について考えてたんですね。ドラマは誰が、どう見るものなのか?
まあ別に誰がどう見ようと構わないんですが作り手側からしたらそうはいかないところ。オレは基本的には作り手がマジメに作ってるものならマジメに見たいと思うし、それが自分の好きなドラマなら尚更ちゃんと見なきゃって思うんですね。
でも世の中にはそうじゃない人、むしろ何かしながら見る人、見ててもそんなに脚本や演出の意図まで考えて見るわけじゃない人の方が多いわけです。俳優だけを見たくてチャンネルをあわせる人の方が多いかもしれないし、単に気分転換に見る人やヒマだから見てる人もたくさんいると思う。
特にリアルタイムで流れてるものは止めたり巻き戻したり出来ないんだけど、だからといってわざわざ好きでもないドラマを録画してまで見る人はそうはいないと思う。オレだって、たいして好きでもないドラマはながらで見るからそれは当たり前のことだと思うのですよ。
でも好きな作品なら、セリフの意味やシーンの意味を考えながら見るのは、少なくともマジメに番組を作ってるスタッフへのある意味礼儀だとも思うんですね。だからマジメに見てないくせに自分に判らないからという理由で、この作品は詰まらないなんて感想を書いてる人を見るとオレは結構ムカつきます。これは結構感情的なことなんだけど、自分が面白いと思って見てるのもなら尚更。ちゃんと見てから言ってくれよーと思うんですね。
何が引っ掛かるのかというと「好きじゃない」ならいいけど、なぜマジメに見てないくせに作品の評価をくだすのか?少なくとも放送されたものを見てその話の意図を汲める作品であるならば、それを汲み取ったうえで感想書くなり批評するべきだと思うし。それは、どうせ面白くないだろうと思いながら見るから、余計に面白くないということでもあるんじゃないのかな。(この辺、響鬼の後半に対して色眼鏡で見てた人たちのこともちょっと考えたり)
まあドラマの見方は千差万別なのであまり細かく突っ込んでも仕方ないんで、そういう面もある、くらいにしといて。
そんなことを思いながらちょっと西遊記とか時効警察、神サイ辺りの話を…と思ってたんですが、ヒロビのインタビューを読んだら白倉さんのことを書きたくなったんで、ドラマのことは後回しにして、白倉さんのことを。

出来れば何かを啓蒙したいのか?

白倉氏のブログ「A Study around Super Heroes」の「淀川さんの思い出」のエントリーを読んで、ああと思ったこと。

映画を見るからには、カット割りを頭の中で再現できるほど真剣に見なければ意味がない! というほどの覚悟。その上で、各カットの意図・各シーンの意味を読み取れなければ、観客として怠惰である! という叱咤。
そうは直接言っていないのだが、それほどの気迫が伝わってくる淀川さんという存在がそこにいた。
ようやく合点がいったことがある。
そのちょっと前、大学の教養課程に映画ファンが集まる映画ゼミというのがあるというので、お気楽に参加した。
でも、お気楽にはいかなかった。
(中略)
淀川さんという巨大な存在を目の当たりにして、そのギモンは氷解した。
そうなのだ。映画に文芸的な感興以上の意味が何かあるなら、その意味を問えなければ映画の製作者に値せず、その意味を受け止められなければ映画の観客に値しない。

まあここまで覚悟して映画やドラマを見なければいけないという法はないけれど、好きな特撮番組やドラマの感想を書く以上、やはりこれくらいの覚悟で望みたい、望まなければいけないんじゃないのかな、と感じた次第。出来る範囲でだけど。他人の感想を見て回ったりするのもそういうゼミのディスカッションみたいなもので、他の人の見方に頷いたり、自分と意見が違うのならそれはなぜでどう違うのかを知りたいからなワケで、単純に自分と同意見を探して安心したいからだけではないと思うのです。
もちろんお気楽に見て「面白かった!」だけですむものはそれはそれでいいんだけれど、何が面白かったのか、何が詰まらないと思ったのかくらいは自分で認識してたいと思うんですね。その理由は好き嫌い、萌え、何でもいいんだけど、なぜそう思ったのか?はやはり知りたいのです。(これは分析好きのオタクだからかもしれないけど)


まあそんなことを思ってたら、ヒーローヴィジョン vol.22 (ソノラマノMOOK)でその白倉さんのインタビューがあって、関係あるような無いような、ちょっと面白い内容だったんで食いついてみました(笑)
読んでない人の方が多いと思うんでちょっと簡単に要約すると、東映プロデューサーとしての立場からカブトへの関りとどういうメッセージを込めた番組にしたいかという話、響鬼の映画だけじゃなく番組後半まで引き受けざるを得なかった時に思ったこと、そこからカブトをどういうふうな作品にするべきかを考えた…というような感じですか。合ってるかな?
で、これを読むと白倉さんの考えがいろいろ判るというか、まあ本人知ってるわけじゃないんで判るような気がする…なんですが、オイラにはとても興味深かったです。

白倉響鬼はドラマ重視

まず白倉さんは響鬼の新しさが受けなかったことはどうも結構残念に思ってるらしい。
だからといってある作品に対して「新しさ」だけで評価しろといわれても無理な話で、これは先に書いたように大多数の人々がドラマを見る姿勢からしたらそんなところに面白さを求めるわけもなく、マニア以外の殆どの視聴者はそんなこと知ったこっちゃないワケです。もちろん白倉さんはプロデューサーという立場からしても、そんなことは当然判ってるわけですね。
ただ穿った見方をすれば、白倉さん自身は自分はやらないようなネタである「響鬼」という特撮(ライダー)作品が「完全新生」の名のもとに世間に挑戦して、結果として玉砕したことに対しては評価してるような気がしてたんですね。それは自分が傍観者というわりと気楽な立場で、その挑戦がどこまで通用するか見守る。つまりどの程度なら新しいと思ってもらえて、どこを崩すとダメなのかがある程度測れたというような感じで。
響鬼に関しては、「当然消去法でいけばああするしかなかった」とどっかのインタビューでも言ってましたが、響鬼の後半の物語をすごく事務的に構築し直したことからいって響鬼の問題点は判りすぎるほど判ってたと思うんですね。
だから最初はひょっとしたら、この響鬼の設定でも「自分ならこう作るのに」「ここをこうすればこの設定でも受けるモノが作れるはずなのに」みたいな惜しさがあるのかと思ってたんですが、どうもそれもないみたい…なのかなーと。まあ映画でやったのが白倉響鬼だといえばそうなんだけど。
で、このインタビューを見ててたぶん白倉さんは作品としての響鬼にはそんなに興味ないんだなあと思ったわけです。だからこそあの後半を思いきって作り替えることが出来たと思うんだし。(オレの後半に関する考察はこの辺「パネルシアターの意味について」「総括?」 言ってること矛盾してたらスマン)
でも興味はなくても仕事としてやる以上は、自分が好きな方向へ持っていくのは当然だしそうでないとやる意味もないのも確かなことで、それゆえ響鬼後半はいきなりドラマ重視のいつもの白倉路線になったワケですね。あとでも言いますが、作家性ではないけれどやりたい方向性を常に持ってるのはクリエーターとしては当たり前のことで、白倉さんがやる以上、いくら高寺さんの設定を受け継いだとはいえ、同じ素材でもシェフが替われば料理が変わるのは当たり前なように、ぱっと見全く違う物のように思えるのは仕方ないことですね。いいか悪いかは別として。
まあ結局響鬼の挑戦が失敗したということで判ったのは視聴者は作り手が思う新しさというものには対して興味を示さなかったということ。でも常に基本はオーソドックスでありながらそこに新しいものを取り入れていかないと、視聴者に受ける作品にはならないといことが判ったということだったと。だって視聴者が見たいのは「設定」ではなく「ドラマ」なんだからさ。もちろん子供向けの特撮番組である以上、ヒーローがヒーローらしく戦う様を見たいという人もいると思うけど、そこには何らかのドラマがあって、泣いたり笑ったり怒ったりを共有できないと、ドラマを見ている意味がないと思うのですよ。*1
オレは高寺さんの作風は好きではないけど今回はそのライダーの大枠から外れるような設定部分の目新しさや見た目の斬新さに関しては非常に興味を持ったんだけど、大多数の普通の視聴者はそうではなかったという当たり前の結果になったわけですね。もちろんその、設定の斬新さ以上に物語が面白ければもちろん結果は違うことになったと思うんだけど、そうはならなかったし、その原因は余りにも明らかだったと。

そもそもタイプが違うから

よく白倉さんと比較して高寺さんとか雨宮さんとか引きあいに出されるけど、そもそもそこが間違いで、ああいう「自分が作りたい=作品総てをコントロールしたい」という監督タイプの人と、白倉さんみたいな完全プロデューサータイプの人を比べるのが間違ってるというか、比べるモノじゃないと思うんですね。
これはクリエイターとか言うことでなくサラリーマンでも同じなんですが、いい年して管理職になれといわれてるのに現場が好きだからといっていつまでも現場にいたがる人、もしくは管理職になっても職分をわきまえず現場に口出しをする人と、役がつくのは仕方ないから、じゃあそこで自分の好きなものを作る環境を整えて好き勝手やることを良しとする人の違いですね。単に性格の違いでもいいですが。そして多くの場合、前者はひたすら自分が作りたいものを作ることを考え、まあ多少視野が広い人なら自分の満足がみんなの満足になるようには考えるけど、それでも譲れない部分の方が多かったりして、それがいわゆる「拘り」ということになるわけですね。その辺が作家性といわれる部分で。

後者のタイプは与えられたものをどうやれば自分が好きなものに出来るのか、自分も満足してみんなも満足できるものはあるのか、そのためには世間で何が流行ってるか、何を求めているか、それは自分が表現したいものとどれだけ違うのかを細かくマーケティングしていって、その結果がこのインタビューでも白倉さんが言ってる「テレビは最大公約数を満足させないとね」ってことだと思うんですね。マーケティングが入る時点で自分の満足=みんなの満足(もしくはその逆も)になるわけだから、作家性は薄くなる…むしろプロデューサーに作家性なんかあってもしょうがないと思うし。本来プロデューサーの仕事はヒットして、なおかついい作品を作ることなので、これはすごく「正しい」と思うんですね。
そもそもプロデューサーって、ひとつの優れた作品を作るためにどれだけいろんなところの優れた人材を確保できるのか、ということが能力のひとつだし、そういうところに喜びを見出す人たちですよね。白倉さんの「今仕事してて楽しいこと」が、「テロップ考えてるとき」というのはまさにこういうことなんじゃないでしょうかね。


ドラマに目新しいものって必要ないかといえばそんなことはないけど、結局伝えたいことがあってそのためにいろんなドラマの見せ方があるわけで、それを考えるのは難しいことではないけれど、TVの前に座る人が何を求めているかということに対して、如何に応えるかは容易いことではないということでしょうか。その辺が作り手側の悩ましいところでもあるんだと思うんですが。

まあそんな風にテレビの観客にある程度の見識をもってドラマを見るべしといいながら、最大公約数の幸せを考えながらドラマを作るという白倉さんは面白いなあと思うのです。そうだね、オレは白倉信者かもね(笑)

*1:たまたま昨日読んだ手塚治虫全集のあとがきにSF 漫画はどうあるべきかということが書かれてて、「SFというのはよくある空想や科学冒険物ではない。ヒーローが活躍する話でもいいけど、そういった舞台を通して人間のいろいろな面が浮き彫りにされて、他のものよりそういうしっかりした物語の骨組みがないといけないのです」とありました。そういう意味では常に時代に流されないテーマ性を求めるのは大人向け・子供向けに限らず特撮作品の在りようにもいえることではないでしょうか。