そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

「自由と平和のために戦う」ということ

もともとは以前書いた「仮面ライダーな生き方とは?」の補足部分で思ってたことを、ちょっとカブトと絡めて手を入れてみました。(つか、そのあと実際これ書いたのは6月くらいだからこんなモン3ヶ月も抱えてたよ)
カブトが話が転がりそうだから、今のうちに。


実は仮面ライダーにおいて標題のこの言い方にはずーっと違和感がありました。
「人類の自由と平和」というのは誰にとっての自由と平和なのか?人類とはいうけれどその人類にも多様の価値観があり、改造されて人間じゃなくなってたとしてもショッカーだってメンタリティは人類なわけです。宇宙人や異次元人なわけではなく、同じ価値観を持ってるはずなんですよね。だからこそ「悪こそが正義」といういい方が通用するんだし。
自由というのはそもそも自らが自由であることを欲するためには他人の自由もある程度認めなければならないという側面があります。人と関るうえでは大なり小なりみんな実践してる当たり前なことですが、改めて「自由を侵す者」を排除するとした場合、それは本当に正しいのか?と考えると結局「正義」と同じだと思うんですね。自分の自由を侵すものは敵であると。
「正義」というなんだかよく判らないモノではなく、「自由」という判りやすいモノをにしただけなんだけど、本質的には自分の行動、信条を冒す者を敵とするってことでは同じだなと思うわけです。


この辺はたぶんもともと建前的に同質民族である日本人が考える「悪」であり「敵」であるから、余計にそう思うのかもしれないです。まわりにいるのは考え方も価値観も全く相いれない人間だという状況になって初めて「違う」ということがどういうことか判るということもあるし。話がズレるけど、こういうのは外国に行くとよく判るというか…特にアメリカは顕著ですね。*1
でも「自分と戦う」だとちょっと自己完結しすぎる。そういうのがテーマの作品ではいいんだけど、それだと「個人」が強すぎて、やっぱり日本人の嗜好には合わない気がする。なので身近な人々を守るために戦う、愛する人との愛のために戦う、自分の子供たちのため、つまり未来のために戦うと問題を卑近化、よくいえば戦う理由を自分に引き寄せて来たわけですね。誰かのために戦うと。そのもっと個人的な戦いの理由として「どうにもならない自分の運命と闘う」があるんじゃないかなあというのが、オレが平成ライダーシリーズに感じる戦いの理由だったんですね。
ちょっと繰り返しになってしまいますが、元々仮面ライダーにおいては、「正義」というものは立場によって見方や解釈が変わるものだから万人、特に日本人に向けては「自由」のために戦うってことにした…というのは何となく知ってますが、その自由さえも誰のための自由なのかということを考えると、結局正義と同じで「自分たちの為の自由」でしかなく、やはり万人向けではないような気がするんですよ。それで「自らの運命と闘う」という極めて個人的なことが重要になったんじゃないかなあと漠然と思ったんですね。


だから平成ライダーをずっと見てて、実は一度も仮面ライダーが「人類の自由と平和」のために戦ってると思ったことはないんですよ。一貫して描かれてるのは「自らの運命と闘う」ってことだと思ってたんですね。この辺、オレは昭和の呪縛がないから余計そう思うのかも。(だからネットで仮面ライダーに対する意見をチェックしてて、枕詞のように「人類の自由と平和のために戦う仮面ライダー」という言い回しを見て、初めてそうだったのかーと知ったに近いです)
誰かの笑顔を守るために戦う、人間の自由を奪う(殺すことも含めて)相手と戦う、それはあくまでも番組的な大義名分で、実は彼らは自己満足も含めて自分のために闘ってんじゃないかなと。抗えない運命を背負ってしまった人間が自分がより善く生きるためにその運命と闘う、それが運命によって仮面ライダーになってしまった者の宿命じゃないかなあと思うんですね。
細かいことをいうとキリがないんで主人公のみで語りますが、クウガの五代、アギトの翔一くん、555の巧なんかは自らが人間じゃなくなったこと、それゆえ仮面ライダーとしてどう生きるかという物語、龍騎は自分の欲望のためにライダーになってしまった人間の中で、偶然ライダーになってしまった真司がライダーではなく人間としてどう生きるかを探す物語、剣の剣崎は職業としての仮面ライダーだったんだけど、そこから本当の仮面ライダー、しかも自ら人でないものに変わる物語*2響鬼仮面ライダーとは言えないけど、後半の鬼の在り方は仮面ライダーのそれと通じる宿命的なものがあるってことで、どう考えてもオレ的には「仮面ライダー」というものは自分の運命と常に闘いつづけている人々ってイメージがあるのですね。
これはもともとの石ノ森ヒーローの戦う理由ってのが、非常に個人的な悩みや動機からきてたりするということを考えると、ヒーローでありながらそういうアンチヒーロー的な側面があり、なおかつ常に宿命を背負って生きているという哀しみに満ちているところがとても仮面ライダーだと思うんですよ。自分の本心を仮面を隠して生きていく悲哀みたいなものでしょうか。


でまあオレの思う「仮面ライダー」が自分の運命と闘い続ける人であるならば、カブトの天道総司はどうなのか。
天道はライダーになるのが運命のようなことを言ってましたが、どうもそのわりに上で言ったような「運命と闘っている」という感じを受けなくて、その理由を考えてみると彼が達観してるからだと思うんですね。
今の展開だと天道は何かの使命のためにライダーとしてワームと闘っているし、それはどうもひよりを守るためでもあるらしい。しかし彼が仮面ライダーになるのは運命だった…ということから考えると、何となくだけど今の彼は運命と闘う人ではなく、課せられた運命を乗り越えて自ら違う運命を切り開いた人かなあとも思うんですね。これ自体タイムスリップネタとか輪廻思想入ってすんですが。(映画のラストを見ると、違う時間軸のある意味別人ではあるけど、そんな感じですが…「天道総司」には違いないし)
対してダブル主人公の加賀美の方は、今まさにガタックという呪いをかけられて、ライダーの運命を背負わされた様に見えます。もちろんワームである神代も運命背負ってるってことなのかな。矢車さん、影山、大介は今んとこまだそういう感じじゃないしな。そいう意味ではむしろひよりか。ライダーじゃなくてワームだけど。


平成ライダーが「運命と闘い続ける者たちの物語」だとすると、この辺が物語的にどうなるのかも楽しみですね。(と無理やりまとめてみる)

*1:「違う」ということが前提の社会だから法律や社会制度が合理的で情を挟む余地が無い。逆に日本は同じだからこそ連帯責任やなあなあで済ませたり、「向こう三軒両隣」なんていう考えが暗黙の了解として成り立つんだよね。大ざっぱに言うと。(歴史的な経緯はおいといて)

*2:面白いと思ったのは、クウガ、アギト、555が人間でなくなってから人として、ライダーとしてどう生きるか?という話であるのに対して、剣の場合、人間がライダーであることを選び続た結果、ライダーとして生きること、即ち人でない者=仮面ライダーになってしまうことですね。