そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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平成ライダーの荒唐無稽さ

実は「電王」の世界観のリアルさってどの程度だろうと、こないだからちょっと考えてたんだけど、電王が始まった時になんとなくカブトと同じ雰囲気だなあと思ったんですね。同じってのは同じ程度に「荒唐無稽」って事なのですが。といっても別に荒唐無稽なのが悪いって言ってるわけじゃなく、オレは荒唐無稽な物が好きだからと言うことで。
リアルが売りの平成ライダーといっても、作品ごとにPが変わってるから微妙にその立脚する拠所が違ってるんだけど、それでも「響鬼」まではそれなりのシリアスな世界観があったと思うんですね。
テーマもシリアスだし、世界観も基本シリアス。登場人物もそれなり現実世界の自分たちに引き写せるような部分があったという意味で、リアルな造形になっていた。世界観描写もある程度は物語世界を構築しようとしていたはずなんですね。
ひとことで言うと、「作品内でのリアリティがあった」と言うことです。
どういうことかというと、一応自分的な理解で説明しときますが(言葉の意味合い自体はこの際おいといて)

  • クウガでは時間や場所の描写を積極的に取り入れることで物語世界そのものを現実世界と重ねようとしていた。世界観の構築にそれなりのリアリティを持たせたうえで、主人公等の設定は異常な出来事と言うスタンスだった。(高寺P)
  • アギトではクウガの世界観を継いでいた上で、物語そのものと主人公たちは架空ではあるけれど、現実的な関係性で世界と関わっているということを見せていた。基本的には人間の進化ということで世界をどうするか、という話だった。(白倉P)
  • 龍騎は登場人物が多かったから、個人を描いたライダーバトルという特殊な設定でも、それなりの人間関係で世界との関わりを描写することができた。(白倉P)
  • 555は誰もがオルフェノクになる可能性ということと、アギト同様世界は人間のものか、オルフェノクのものかという流れの中で、オルフェノクが人間の進化系ではないかという可能性が描かれていた。(白倉P)
  • 剣はその世界自体の成り立ちがバトルの原因であるので、やはり個人の戦いは世界に帰結することになり、さらに主人公個人の去就に繋がっていった。一応常にある程度現実的な「世界」という枠組みの意識はあった。(日笠P)
  • 響鬼は物語世界内での組織と個人を描こうとはしてたんで、やはりその中での世界の広がりは感じられた。場所に対する拘りレベルで現実世界との関連を常に考えていた。(高寺P)

ここまではそれなりシリアスなテーマがあって、ある程度の物語内でのリアリティを持ちつつシリアスに話を展開することがベースになっているという「お約束」がちゃんと存在していたんですね。ギャグやコメディ描写は味付け程度ではあるけど、それで十分なくらいに機能していたわけです。
ところが白倉Pのカブトから、いきなりリアルの設定レベルが通常の「ドラマ」から「マンガ」になっちゃったわけですね。ギャグやコメディも味付けというよりは、むしろ全面に出してそのノリで話を展開させようとするくらいに重要視されていたし。
カブトの場合は

  • ワームの脅威はあるものの、「世界」に対してどういう脅威なのかが描かれなかったせいで登場人物周辺での狭い範囲での物語にしかならなかった。ある意味セカイ系
  • 場所的な拘りも東京タワーをシンボルとすることで、一種の地域限定なファンタジー空間になってしまった。渋谷廃虚のリアリティもそれに準じている。
  • 主人公が「一番」であることで、そこが全ての基準になってしまうという意味での「有り得なさ=荒唐無稽さ」が、結局主人公あってのこの世界という箱庭的な物語世界を作ってしまった。

これがそのまま電王の世界観に引き継がれてて、

  • イマジンは世界にとってどういう脅威なのか具体的には全く判らない(17話時点でですが)
  • ゲストが主人公たちにあまり絡まないせいで、世界を広げるという役割を背負えない。ハナのキャラクターの説明もされてないことから、今のところ「良太郎とイマジンたち」の君と僕的な意味でのセカイ系
  • 主人公が「有りえないほど不運」という基準が出来てるから、ある意味そこが荒唐無稽さのボーダーラインになっている。

電王のキャラクターたちは背景が判らないということではカブトと同じで、これは物語世界的に深みがなくなるんですよね。「確かに生きてる」という意味での物語世界内でのリアリティが低いんですね。むしろ記号的であると。
といっても子供向けならこれでも十分なのですが、これじゃ人間関係でドラマを作るのはちょっと難しいだろうと思うのですよ。その結果がカブトの時の唐突な展開や人物描写だったりするんじゃないかなあと。まああれはあれで「キャラクターショー」として楽しむという見方も出来たんでいいんですが。(電王もイマジンたちのキャラクターショーになりつつあるけど)
カブトの時の米村さんは、オレは少女漫画的な世界観の持ち主だと思えたんで、そのつもりで見てたからそこにそんなに不満はなかった、そういう意味では米村さんは彼の資質にあった仕事をさせてもらえたと思ってるんですね。(後半でのグダグダっぷりは自滅だと思うけど)
ところが同じようなリアリティの世界観を、わりとリアルにキャラを構築する靖子たんがやらされてるとなるとそれは話が違うわけで、オレが靖子たんを好きとか嫌いとかいう以前に、靖子たんに向いてない仕事だなあと思えるほど、電王の荒唐無稽っぷりと靖子たんのシリアス路線は噛み合ってないと思うのですよ。
それを演出面でカバーできればいいんだけど、出来てないなあというのが、電王の現状のような気がしてるんですが。


もひとつ引き継いじゃったと思えるのは、テーマ的にカブトは「自分が変われば世界も変わる」という「変わる世界」の物語で、最終的にはそこに帰結した。*1
番組的には次は別なことをやればよかったのに、白倉Pは何となくその気分をそのまま発展させたらどうなるか?でテーマを設定しちゃった様な気がするんですね。
つまり電王は「自分が変わることで世界はどうなるか?」という「変わる自分」の話のような気がするんですが、果たしてこれはよかったのかどうか。対にはなってると思うけど。
カブトは物語的にはかなりグダグダだったけど、テーマとしてはそこはハッキリしてたということで、今回の電王でそれを引き続きというのは、かなり「お仕事的に」やってる気もするんだよね。でも「物語の有り様」ということをイマイチ判ってない白倉さんに、荒唐無稽のリアリティを持つ作品というのは向いてないんじゃないかと思うんだけど・・・。
「荒唐無稽」ということは如何にもあるように嘘をつくことであるわけです。だから常に自分の中の正義に対する葛藤を形にしたいと思って作ってるっぽい白倉さんは「物語を創る」という柄じゃないような気がするってだけですが。*2


続きエントリー→「リアリティって言うか」 http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20070526/p3

*1:もう一つの「正義の有り様」としては、あまりにも白倉さんの手に余ったんじゃないかという気がするのだけど。だって本人がそう思ってない以上、「俺が正義」なんて描けるはずがないと思うんだよね。それこそ「お仕事的に」でもやらない限り。

*2:そういや、「ヒーローと正義」まだ読みきってないや。