そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

曖昧さについての雑感

モップ見てて思ったんだけど。
作り手がちゃんと考えてあるけど、あえてそれを本筋から外して話を組み立ててるものであるならその隙間を想像して補完して楽しむことも出来るけど、電王みたいにそもそもちゃんと考えてるの?考えてるにしても出されたものがバラバラすぎじゃなくて?と思うものについては、捏造補完も趣味としては楽しいものではあるけど、実際のところもうやるだけ無駄かなーって気がしてきた。パズルのピースが足りなさすぎで、しかも変形されてたら、絶対組み上がらないよな。作ることが楽しいパズルが組み上がらないのが判ってたらやる気なくすじゃん?で、最後に実はこういう絵なんだよって完成図の写真を渡されても・・・な感じなんだよ、ここんとこ毎年のライダーは。一応、どういう絵なのかはみたいからいいんだけどさ、それでも。
毎回の話はその監督の責任においてちゃんと見られるものにはなってるんだ。だから最低限、そういう意味で文句はないんだよ。
でも言葉の使い方にしてもそうだけど、脚本家の癖はあるにしても放映された完成系までに演出・役者の演技が入っていながら曖昧な表現になるってのは、どうかと思うんだ。特に重要なことについてはね。
ひとつは今回感想に書こうと思ってやめたけど、侑斗が自分の存在をゼロノスで「セーブ出きる」といったのが、「保管」の意味なのか「減じる」の意味なのかちょっと意味を掴めなくて引っ掛かったんだけど、前後の文脈を考えると「影響を"受けない"」って意味だよな。どうしてあえて「セーブ」なんて言葉を使うのか?赤ゼロノスと侑斗の存在の「復活の現実」に対して、意味として曖昧になりすぎるよ。そんなの「狙い」だなんて言わせねぇ。
錆びて落とした指輪にしても、侑斗がそれについてちょっとでも何か思うところがあったような描写をしてるわけでもないアイテムだから、余りに唐突なんだよね。単にオシャレで指輪をぶら下げてると思ってたよ?オレの頭の中で補完するに、どこかでほんの3カット入れればいいだけよ?「指輪を見つめる侑斗」の絵をさ。伏線や布石なしでいきなりオチだけ見せるなよって感じ。
物語の作り方でよく言われるのは「知ってて知らないふりをするのが設定というもので、本当に知らないままでやるのはただのバカ」なんだよね。(最近だと大江戸ロケットトークイベントで聞きましたが)
知ってるからこそその加減の良し悪しに作り手側の思いや考えが出てくるわけで、そこんとこをして作り手の良心とか物作りの姿勢の是非を感じることが出来るんだけど、例えどんなものでも、整合性が取れてないよりは取れてるほうがいいと思うんだ。取れてるからって面白いかどうかは別だけど、取れてて面白いほうがいいに決まってる。
平成ライダーの場合、オレがどうしてもその辺辛めになるのは「クウガ」「アギト」があったからで(特にアギト)、多少スタッフが違うにしてもそれがちゃんと出来る人たちがやってるものが、どんどん基礎部分で考え方としてインチキになっていくのは困るなあと思うのよ。
見てる人を惹きつける手法として、曖昧だということ、謎めいてるということ、いかにも何かやってるような楽しげで騒がしい様子というのがあると思うけど、電王の人気についてはまさにそれ。(ちなみにオレが昼ドラや朝ドラが好きじゃないのは、基本的に騒がしげなことがデフォルトだから。←忙しい状況で見る人を惹きつけるための手法。そういう意味なく騒がしいキャラや筋立ては苦手なのだ)
謎があるのは当然、序盤でそれをエサにして視聴意欲を湧かせるのも当たり前だけど、あと2ヶ月で終わりなのに未だこの状態。
いかにも何かあり気に曖昧なことをやられると食いつきたくなるんだけど、それは単に「曖昧だから」ということに釣られてしまっただけで、釣った魚にエサはやらねーと言われても、食いついた方の責任ではあるのは判ってるけどさ、なんか納得いかねーんだよなー。アギトにしても、人を食いつかせるためのそういう手法の裏にちゃんと筋道があるから本当に惹きつけられるわけで、見た目の曖昧さや楽しさだけじゃ、ちょっと辛いんだよなー。
一応面白く見てはいるけど、例年以上に何の裏も見えてこないこの状況はちょっと辛いんだよなあ。補完して楽しむという部分もあまりにもうストーリーから何も拾えないからさ。捏造や妄想は本意でないし。
何となくいろいろ謎について考えてることはあったけど、見返してるヒマもないし、最低2回は見てるにしてもそれで判らないんじゃあ、そもそも子供向けの娯楽番組とは言えんだろ。かといって流れるままに受け止めるのも、何となくクヤシイ感じだし。
ってことで、一応明日の電王もこれからの電王も楽しみに見るけど、なんかいろいろ面白くなればいいなあ。