そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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平成ライダーにおいての「正義の味方」

毎年この時期になるとこんなこと考えてる気がするんだけど、quonさんとこのコメ欄見ててボンヤリ考えたど。
エントリ自体はゲームのことなのでよく判んないんですが。http://d.hatena.ne.jp/quon913/20080104/1199460336
 
平成ライダーの主人公って、「正義の味方」てわけじゃないよなあ。自ら標榜して「正義」を名乗るならってことだけど。
良太郎いわく、「自分が出来ることがあるからやる」というのはある意味本音だとして、でも正義というお題目を唱えるときって他人のために何かしようと思ってるわけじゃなく、自分が正しいと思ってやってることが、たまたま他人の正義と合致してるだけというか、そんな感じじゃない?
それを自分で言うと嘘臭くなると思うのは、今じゃ誰もがそんなことを信じてないってことだと思うけど、まともな人間なら誰だって自分の欲望を「正義」と言いきることはためらうし、ましてやそれが世間のためだなんていう自意識が肥大した状態をよしと出来るわけがないもんな。そのために自己犠牲できるかどうかは別として。(ちなみにオレは、力を持たない一般人がヒーローになるときは、成功すればヒーロー、失敗したらただの人、だと思ってます。だから人と違った超常能力—力を持つ者がヒーローになるのは当然であり必然だと考えます)
その点昭和ライダーは自分を犠牲に自分の思う正義を行うことにためらいがないし、自分の思う正義は世間の正義と一致してる。(ここに「悩まない」という精神的自己犠牲もあるからだと思う)これは単に時代性ってことなだけだと思うのね。

だけど基本的に現代に於ける平成ライダーで「正義を行う者」ってのは「他人にない力を持ってしまった人間」が、この状況を救うことが出来るんなら仕方ないという、普通の人の気持ちならむしろ当然のこととして(自分の意志かどうかは別に)戦いに参戦し、その筋の通し方として自分の正義を以て他人の利益のために行使することなわけで、自分が正義の味方でありたいがために正義を名乗る人間というのはいないんだよね。
そうやって力を手に入れ、敵/悪を倒さなければならないという大義名分に動かされて戦い始めるけど、その過程において自分が手に入れ行使する力、それによって行われる自分の正義が本当に正しいのかどうかに疑問を抱き、問い続けることが物語の裏の主軸になってるんだと思うのね。
だって、自分が手に入れた力を是非もなく自分の思うままに使うことは、例えそれを正義と信じても、他人にとってはただの自己満足でしかなくて、悪となんら変わりのない行動じゃないかと思うのだ。なぜってそれは、正義というものがあくまで自分の主観によるものでしかないからさ。
 

過去のSSPライダーっていうのは主人公のなす正義に繰り返し「本当にそれで良いのか。お前は正しいのか」と問い続け、迷いながらでも信念を通す彼等の姿を見せることで、「良いんだ。君は正しい」と視聴者が答えを出すような物語だ・・・

とquonさんがいう通り、だからこそ常人にない力で自分の正義を行う主人公が、「それでいいのか?」と問い続け悩んでいる様を見せられて、自分たち視聴者は正義と人間の有り様を考える。
その悩んで出す過程と結論こそが「リアル」であり、正義の是非は問題じゃない。その人間個人の試行錯誤の到達点としてそれを肯定するか(できるか)どうかで、主人公の主観的正義と視聴者の主観的正義を共有するってことじゃないかと思うのだよ。でなきゃ、こういうヒーロー物としての、現代的な物語の落とし所ってないし。
そういう人間としての苦悩のドラマを、「正義」を方便として描きたいのが白倉さんだと思うのね。だから本当はその方法論はどうでもよくて、特撮ヒーロー物というジャンルカテゴリにいるから(それが好きだから?)そういう方法でドラマを描いてるってだけだと思うのだ。
 
平成ライダーの多くの作品は自分の正義と世間の正義のすり合わせが上手くいかなくて、どちらかが泥を被って生きていくという話になっちゃうんだよね。(多くの場合は異能者である主人公が)
クウガ」「アギト」「555」の場合、人類を脅かす何かと戦う力を手に入れてしまったから戦わなければいけないという状況に放り込まれたわけで、そのやってることが「正義」なのは本人と世間の正義の方向性が同じだった、だからいわゆる「悪」にはならなかっただけの話。「力」という善悪の区分けのないものを、いわゆる「善」という概念で行使できるかどうかというところに「善なる人間」故の葛藤が現れるところが「人間ドラマ」であるんじゃないかと。
龍騎」においては単にそれを描きたいがために個人の欲望をストレートに「正義」としたけど、それ故、個人の正義は他人にとって間違ってる(悪である)こともあるという判りやすい「言い訳」になるわけです。つまり、それそのものの状況を見せることで、人間の正義と、それが如何に善であり悪であるかの有り様を見せたかったというだけでいいと思うし。(簡単に言い過ぎか)
「剣」の場合は主人公剣崎が最後に選択肢した「自分が正しいと思うこと」は、世間に対してもたぶん正しいことで、それは彼が最初から「仮面ライダー」という「正義の味方」だったからこその結末であって、その選択の是非よりも彼の犠牲を考えたときに他人がとやかく言うことが出来なくなるという構図があるんだよね。まあ平成ライダーで本当にヒーローになったのは彼だけだから、これは珍しいパターン。最初から正義の味方である彼の正義は揺るがないし、そのために犠牲にしたものを考えると他人は口を挟むことが出来ない。理屈でなく感情として、そういうものだと納得するしかないわけです。だから善悪の正義じゃないんだよね。(ちなみにクウガと剣は白倉さんの息が掛かってないライダーですが)
「カブト」はそもそも「俺が正義」という主人公が実は間違ってる、しかも途中それを認めながらも別の正義を容認するという非常に判りにくい展開で、正義そのものは結局描かれてないような気がするんだよね。是非の問題でもないというか・・・なのでノーカウント。
響鬼」はライダーじゃないからこれは問題外。
「電王」の場合は、主人公良太郎の正しいと思うことは、自分にとってはある意味間違ってるということがより明確で、世間的に正しいことをしようとすれば、自分がそのアンビバレンツな状況を受け入れなければいけないんだけど、良太郎の犠牲があるかといえばタロスとの別れという以外にない・・・というのがそもそも正義を語る話か?って気もするんだよね。
ちょっと乱暴に括ったけどそういう風な目線で見ると、ただのエンタメな子供向け特撮番組という枠でない、かなり特異な物を毎年見せられてる気がするんだけど、こういう平成ライダーのような妙ちきりんな作品を毎年見られるのはとても楽しいなあと思うのです。(これが結論か?)行き当たりばったりに楽しんでるだけで、あんまり深くは考えてないんだけどさ。
 
追記:コメ欄であげられれるから補足しとくけど、ダークヒーローとしてのバットマンの有り様というのは、私怨から出た義憤を金と権力を使って自分勝手に犯罪者を裁く、矛盾は抱えてるけど理屈としては筋が通っていて、そのためのお膳立てがしてあるゴッサムシティという器があるから成り立ってるんですね。実際犯罪者にどんな理屈があるにせよ、それは裁かれるべきものという断固とした意志があり、そのための泥は被るという覚悟があるから赦される性質のものですね。スーパーマンと違って必要悪だから見て見ぬふりをしているってことです。そもそも異常者扱いだしw(この辺「BATMAN BEYOND」とかの方がはっきりしてるけど)
追記2:そういや「ヒーローと正義まだ読み終わってないやw