そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

風太郎のシアワセ

中途半端に書き上げて2週間ほど放置してしまったんだけど、今さらと思いつつせっかく書いたんだから新番が始まる前に上げときます。
そんなに深く考えてるわけでもなかったんですが、最終回の風太郎の妄想に何かちょっと気になって引っかかってるものもあって、もうちょっとだけ、少し考えてみた。考えたっていっても思いつきに近いけど。
トラバった方が早いから、オレがコメントしたこちらのブログを。

 
他人が「そう思った」という意見に異論を唱えるつもりはないんですが、コメントしててちょっと気になったというか引っかかったというか、それでもうちょっとだけ考えてみたんですね。
それは自分の解釈の感想としてなんだけど、発端はこちらが風太郎の妄想を、共通認識として相対化した「一億層中流っていう幻想」としての、一般的な幸せのファンタジーとして認識していたから、ちょっと違うんじゃないかなあと思ったってだけなんですが。
この幻想はファンタジーだから、「今現在の現実とはズレてる」「あと数十年すれば確実にファンタジーに見えるんだろう」という解釈。
このドラマを見ててそう思う人たちはたくさんいるだろうから、そう思うことは別に構わないのね。
ただオレが思ったのは、果たしてそうだろうか?そんな簡単なまとめ方をここのスタッフはするんだろうか?というとこでなんか引っかかる物を感じてたんだけど、やっぱりあの一連のシーンはそういう風に相対化した物じゃないって気がするんですよね。
初見の自分の感想でもどちらかというと「風太郎個人が望む幸せの形」だと思ってたんですが、これが一億総中流の共通幻想としてのファンタジーな「幸せ」でなく風太郎個人のものだと思う根拠と、その場合それはどういう意味なのかということを主に。
見返した方がいいかなとも思ったけど、面倒だから見返さないまま語ります。というかスゴイ暴論ですが、オレこの「銭ゲバ」及び蒲郡風太郎ってキャラは、自分的に見返す必要ないくらいに理解出来ると勝手に思ってるんで、見返しません。見返す時は全話まとめて娯楽として観賞しますよ。
 
そもそも風太郎の生き方に共感出来る人なんてたぶんいないと思うんだけど、だからこそあの「幸せ」は風太郎の中の幸せの妄想であって、相対化出来ない物だと思うんですよ。
それは見てる人がどれくらいこの「銭ゲバ」というドラマや蒲郡風太郎というキャラを自分に引き寄せて感じてるかって話でもあるんですが、その場合、見る人の状況やその時の社会状況によっても感じ方が違うはずなんだよね。
もちろんそういう「自分ならどうしたか」という見方もありだし、そういう風に考えるように作られてはいるんだけど、このドラマとして何が正解なんだろう、1話からずっと見て風太郎が何を欲して、何を手に入れ、手に入れられなかったか?ということを考えた時に、そういう自分に引き寄せて考えるということでの見方や価値観を相対化することの意味すらない、あの妄想は風太郎が求め続けた幸せ以外の何物でもないといっていいんじゃないかと思うのね。
リンク先の意見みたいなものって、基本的に「前程として」自分に引き寄せての考えだと思うんですね。「自分に引き寄せる」っていうのはどういうことかというと、自分の知ってる範疇での常識で判断するってこと。劇中の常識を自分の常識まですり合わせて、時には引き下ろして自分と同じ立ち位置で考えること。そうして自分の中で咀嚼して理解することは個人の物の見方としてありだけど、物書きの人がそれを無自覚にやっててもいいのかな?って気もするし。(これは余計なお世話か)
自分の常識の中で考えられるドラマや小説は理解はしやすいけど、それは世界を知るってことじゃないと思うんですね。自分と違う価値観や世界に触れることが出来るからフィクションは面白いと思うんだけど、そういう意味でこの「銭ゲバ」ってドラマは、現代を舞台にはしてるけど完全にファンタジーであるってことは全体の雰囲気からしてはっきり言い切ってるわけです。原作の価値観を現代に持って来て、注意深く変えたところと変えないところを混在させることで、暗にこれがフィクションのファンタジーであって、現代劇ではないと言ってる。(それらは明らかな突っ込みどころとして存在するわけだし)
つまり、このドラマを理解するためにはこのドラマの中の常識を知ることが必要じゃないかと思うんですね。要するに早い話が「分析・解釈するなら自分とこに引き寄せちゃダメでしょ」ってこと。自分の常識で語るならそれは単なる感想。感想でもいいんだけどね。
 
話戻って風太郎の妄想のことになるけど、このドラマとしてはあれは「風太郎が思う幸せの形」であると。だから現実とズレてるとか、誰もがこういう妄想を幸せとして認識出来るかどうかって話じゃないと思うんですよ。
つまり風太郎だからあの妄想はああいう世界だったということで、例えば引き合いに出されるエヴァの最終回のシンジの妄想が、それこそ相対化されたよくありがちな少女(少年)漫画のラブコメパターンの出会いなのは、狙いとして共通認識の相対化された、誰もが思い描くありきたりな(それすらもあるイメージの刷り込みでしかないけど)ひとつのパターンの具現化であると言うのとは対照的だと思うんですね。これは似てるようで全く違うものなんですよ。表現の意図が違うから、見た目は一見同じでも内容は違うって言った方がいいのかな。

このドラマで風太郎が憎んだものははっきり言えば「お金持ち」でも「貧乏」でもなく、「お金がないということ」なのだから、この妄想世界の登場人物の暮し振り(=お金)として全くの普通の人たちであるというのは、逆にお金の価値が相対化された世界として「お金の苦労を考えなくていい世界」ということだと思うのです。
その中で劇中で健蔵が風太郎に言ってたこと、「世の中には金で買えないものがあるんだよ‥‥愛とか、友情とか」ってのは風太郎の父親として重要な考え方で、風太郎がやっぱり大切に思ってるのが「愛とか友情とか」なのだから、あの世界では愛とか友情に関わることしか「幸せの形」として出てこない。
良夫との友情や茜との恋、行きつけの食堂での楽しいやり取り、バイト先での良好な人間関係、健蔵と初任給で酒を飲むこと、家族が仲良いこと、結婚して自分で家庭を築くこと、それら全てが風太郎が本当は手に入れたかった愛や友情の全てであり、手に入れられなかったものであって、あの妄想はその再構築なんだよね。もちろんお金の価値が相対化されて0になってるから、「お金」という価値観に対する認識はないんだよ、あの世界では。お金持ちでも貧乏でもない世界で金の価値の相対化がされた結果、風太郎にとって何が大切か、というのがよりはっきりと理想化された世界という意味で、あれは他の誰でもない「風太郎のための幸せの世界」なんだと思う。(例えばお金が大事だと思ってる人なら「お金があることでの幸せ」が描かれるだろうということです)
だからこのドラマをたとえ何年後に見ようとも、このドラマを見て正しく理解していれば、あの幸せの妄想をその時の現実と比べることは無意味じゃないかと思うんだよね。(あくまでドラマを楽しむという視点では)
そういう意味ではこのドラマはひとつの世界で完結して閉じていて、でも見る人間の置かれた状況で強烈に何かを揺さぶってくる普遍的な力があるんだと思うのですよ。見ただけでは終らない、何かが引っかかる‥‥っていう感じの。その辺は同じPの「野ブタ。」や「セクロボ」の閉じてるんだけど繋がって続いてる感じと似てる気がします。
まあ、オレはそう思っただけ‥‥ってことですが。