そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

グロテスク(上)(下)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

桐野夏生は「OUT」くらいしか読んだことはないですが、友達に貸されましたw
というか、友達から「東電OL殺害事件」に着想して書かれた小説だと聞いてたんですが、それは確かにそうなんだけど、それがこういう話にフィクション織り交ぜて展開するってことが面白いのかな。さすが桐野夏生というか、スゲェ。
ネタバレ全開なので気にする人は見ない方が‥‥と一応断っとく。
 
 
まず上巻読んだとこまでの感想。
読み初めてすぐにこれって楳図かずおのホラー漫画で、ユリコの佇まいは手塚漫画だなぁと思ったのよ。手塚漫画の破滅型主人公のやつ。「奇子」とか(話うろ覚えだけど)、主人公男だけど「MW」とかさ。
ユリコが、彼女単体で考えると手塚治虫の絵面で思い浮かぶんだけど、楳図ホラーの美少女でもちゃんと絵面にハマるという、そういう感じ。
でまあ、主人公の「わたし」の語りで話は進んでいくんだけど、わりと最初からこの「わたし」が胡散くさくて、コイツ絶対嘘つきだなぁと思ってたんで、途中のユリコの手記を挟まなくてもこの主人公大嫌いと思ってたですよ。ただのいい人たちの鈍感さを悪意で笑う主人公の「わたし」が一番気持ち悪いと思った。まさに「グロテスク」というタイトルに相応しいというべきか。まあ自分で「悪意」を武器に世を渡るべく育ててきたとか言ってるくらいだから性格悪いって気がつけよって話だけど、本人がそれを知っていながらうそぶいてるんだからなあ。(-_-X)
でもってこの小説の上手いところは、真実を明かしていく展開に尽きると思うんだよね。そういう意味ではユリコの手記のあとの、したり顔で妹の悪事を暴いていく「わたし」が語ってることすべてが気持ちが悪いです。
大体前半の山小屋の一件で(「わたし」目線の語りなのでユリコの描写はされてないにも関わらず)、姉の「わたし」が酷い嘘つきだとはっきりわかった上に、そしてやっぱり山小屋の一件でユリコがどういう人間かも(ぶっちゃけニンフォマニア)想像ついたし。だからそのあとの展開はそりゃそうでしょうと‥‥この辺はよくあるストーリーというか予想通り。

というのはこの小説は、話自体は別に目新しい話じゃないってのは普通に物語に接していたら当然予想のつく成り行きでしかなくて、だからストーリー自体は別に面白くないんだよね。ディテールも細かいんだけど、別段特筆するほどのことでなく、こういうキャラとネタなら当然こうなるよなーと想像出来る範疇なんだよね。(自分が書けるって意味じゃなく新味がないって意味でね)
それをこういう風に構成して展開するってことが桐野夏生の上手さだということに尽きるといってもいいし、それを楽しむ小説だといいきっていいんではないかしらん?
彼女たちの転落のストーリー自体、ぶっちゃけ既視感ありありの話でしかないし、Q女子高の話だってそんな名門でなくてもありがちな話じゃん。大人になってない女の子の評価基準なんて、持って生まれた美醜が一番重要だと思うけど。だからギャルは見た目命になるんじゃんねえ。お金や家柄なんて外見で判断出来ないんだし。ブランド物だってイケてない子が持ってたら陰でバカにされてると思うよ?
そんなコワーイ過去の話を振り返りながら所々に入ってくる彼女たちの末期の姿があまりにも悲惨で、話の全体像が見えてくるに従って個々のエピそれぞれが意味を持ってくるという構成の上手さに圧倒される感じ。イヤな話なのに読み進んじゃうんだよね。
一応考えるに、東電OL殺人事件ネタの小説だというなら絶世の美少女ユリコの話はなぜあるのかというと、ユリコやミツル、佐藤和恵に対して「わたし」の抱くいろいろ引っくるめた「悪意」と、和恵の努力の滑稽さを読者目線で描くために用意された装置じゃないかと思うんだよね。いかにして「わたし」がそこまで捻くれた悪意を育てたのかという説得力として、同じハーフでありながらこの世のものとは思えない美貌を持ったニンフォマニアの妹を持った姉の絶望感と世渡り術としての拠り所の「悪意」をハッキリさせるためのものというか。
労せず天からの授かり物として圧倒的な美貌という才能を持った人間と、持ってないことを知ってる人間の絶望感、持っていないことに気付かない人間の努力の虚しさと鈍感さをハッキリさせるためというか。
つか、そんなもんうらやむものじゃないと思うんだけど‥‥って言っちゃったら終わっちゃうか(笑)
 
で、下巻も読み終わって。
はっきり言ってどうせ嘘に決まってるチャンの言い分の調書がちょっと長すぎてウザいんだけど(というかチャンなんかどうでもいい)、下巻のほとんどを占める佐藤和恵の日記、「肉体地獄」の章が面白すぎる!上巻のありきたりさが嘘みたいにオモシレー!(笑)
単純に現実というか自分の認識が現状に適応出来なくて壊れていってる、それがだんだんと顕になっていく‥‥ってだけなんだけど、人が壊れていく状況描写が面白いって話。もちろん上巻の和恵の愚かな努力描写があってこそだけど。
全体に、小説ならではというか、文章で表されてはじめて「あ、そんな気色悪いことになってたのか」と気がつく、読む人の想像力に半分委ねてる描写が上手いなー。本人描写は最低限で、周りの人の反応で相当ヤバいってわかる感じとかさ。
というか何というか、馬鹿だというんでもなく可哀想でもなく、どう考えてもこんな人共感出来ないよ、というかしたくない。壊れる理由自体は判りやすく描かれてるから、単純に「ああ壊れていってるのね‥‥」と思うだけ。だって和恵って最初からどこにも肩入れ出来ないんだもん‥‥と言いきってしまうオレは単に健全で客観的なだけなのかも知れないけどさ。(間違っても、和恵の孤独はよく判るわ〜なんて思わねー)
ってのは努力が報われないってことは現実にも往々にあることだけど、それを「努力する自分は偉くて正しい、認めない周りがオカシイ」って自己正当化する前に、努力の方向性が正しいかどうかがわかる人ではいたいなあ。せめてミツルくらいに。
というか、努力すればなんとかなると思ってるって、なんてオメデタイの?生まれ持っての才能とか容貌とか家柄とか、男だとか女だとか、努力じゃどうしようもないことなんていくらでもあるのに。そこに気がつくことがまず第一じゃないかと。
それを学生時代に学ばなかった和恵が愚かだというか、努力がちゃんとそれなり実ってるミツルと実らない和恵の何が違うかって言うと、人間性とかもともと持ってる力とかあるけど、やっぱり空気を読めるか読めないかだと思うんだよな。和恵が自分のことがわかってて空気が読めてたら無理してQ女子高なんか入らなかったろうし、そうすればそこそこちゃんと生きていけたはずだろうに。まあそう仕向けてたのは親だけど、それも誰かの影響や庇護を受けていることに気がつかないのはオメデタイと、そこだけは「わたし」に同意。というか周りのことも自分のことも見えてないよな。(それを鈍感という)
実際そうして一度は壊れて教団に入り罪を犯したミツルは、もともとちゃんと自分を客観的に見られる賢さがあるから最終的に自分を取り戻して幸せになれた‥‥というのがその証拠。(だけど「わたし」的には酸っぱい葡萄、幸せになった人は自分とは関係ない人かも知れないけどね。いつまでもそういう賢い人を悪く言ってればいいよ!)
ユリコは頭が良くて世渡りも上手かったけど、ニンフォマニアだったことが最終的には悲惨な人生にさせてたんだけど、これをあとあと娼婦として出会った和恵と同じだというのは論外。ユリコは死ぬべき時期を見失ったまま中年になってしまっただけで、別に30前のそれなり華やかなうちに死んでても良かったんだと思うけどな。本人だってそれくらいのつもりで生きてたって言ってるし、彼女の美しさの代償だとそんなもんだよなーと思う。それを理解していたユリコは確かに賢いんだと思う。「わたし」がどう思おうと。
だから和恵が余計に愚かしいというか、劇中、「ユリコは男が好きでセックスがキライ、和恵は男がキライでセックスが好き」ってあったけど、ユリコは単にセックスが好きなだけ、和恵はどちらでもないと思うんだが。
しかも和恵の頑張りの基準、「すごい私でいたい」ってことすら、人としてのボーダーラインとして間違ってるし。最後は「すごい私」ってことすらも欺瞞だと気がついて、本当は誰かに愛して欲しかったって理解したんだけど、もう人生の最初から努力する方向性が間違ってるとしかいいようがないよなあ。お気の毒。いわゆるゴミ屋敷の「ゴミおばさん」が大抵こういうタイプだよね。愛を求める方向が間違ってる人?
自分を偽る人間に真の理解者(彼氏とか旦那とか仲のいい友達とか)なんか現れないよ。いたとしたらそいつも偽ってる、もしくはそれに気がついてない、気がつきたくない人間だね。佐藤和恵がこうなったのも、この小説だと必然としか‥‥
 
で、ユリコの息子の絶世の美少年・百合男(ハーフ+外国人のクオーター)と出会って彼を引き取った「わたし」ですが、最後のオチはなかなか面白かったです。
悪意を持って嘘ばかり語っていたこの話の中の「わたし」(イケメン好き)が、美しい百合男を目にした途端、自分の醜さを自覚して認めてしまう。しかもそれは百合男が目が見えないという都合のいい状況。
そして面白いことに、今までは目が見えなかったから自分の美しさの価値が判ってなかった百合男が、身体を売ることで他人の評価を通して自分の価値を正しく知っていく、それが「わたし」からどんどん遠ざかることになるってのは皮肉な話。
醜い「わたし」と美しい百合男が他人によって自分の本当の価値に気がつき(ただし百合男はプラス、「わたし」はマイナスに)、「わたし」が一方的に思い描いていた百合男との穏やか生活が壊れていくのが何ともいえず愉快。愉快っつか、だって本当に「わたし」って最悪な女だと思うもん。いい気味。
この話に出てくる女達はみんな自分の価値を他人に評価してもらうことで認められたがっていたけど、そんな価値観を馬鹿にして鼻で笑ってた「わたし」は、物語のラストでやっと自分の醜さを知ることのない盲目の少年と読者に対して(だって小説だから描写されない限り本当のことは知りようがないしねぇ)、醜い本当の自分を認めて自分自身に向き合った途端に、別の価値で認めてもらおうと(ぶっちゃけ金)して娼婦になっていくってのが面白すぎる。
結局「わたし」の何が気持ち悪いかって、自分を正しく認識出来ないのはともかく、自分がしがみついている他人に判りやすい「価値」に対して、ものすごく優越感を持ちながらも自分はそんなことに囚われてない、拘ってないんだと装うその自分自身に対する欺瞞が気持ち悪いんだよな。
自分がデブでブスだと判ってるくせに見ない振りして逆に他人を貶める悪意、羨ましくてしようがないから自分が優位に立とうと悪意を持って攻撃する、そのくせ興味本位で他人のプライベートを覗きたがり上から目線で批判、臆病で自分が踏み出すことは出来ないのにそれができる人間は見なかったことにしてしまうという歪んだ心。何もかもが気持ち悪いのよ。まあ美しすぎる妹さえいなければもうちょっとマシな人生があったかも知れないと思うと、それはそれで気の毒な人生だと思うけどさ。でもやっぱり生い立ちから見るに、心根の問題だと思うなぁ。
ああ、「わたし」が酷い目に遇えばいいのに!どうせ「わたし」の末路は、認めてもらう対象が百合男なだけで和恵と一緒だと思うけど。もしくはあんまりうるさく執着しすぎてそのうち百合男に殺されるかもね。どっとはらい
 
小説としては面白かったけど、そもそも実際のこの事件自体、事件としてはええっと思ったけど、そういうこともなくはないかなーとしか思わなかったんで、佐藤和恵ほどの歪みを持ってなくても何かのきっかけで簡単に起りうることだと思うんだよな。そんな特別なことじゃないと思うよ?単にそれが一流企業のOLだったってことがワイドショー的に面白かったってだけで。
まあそれで殺されるほどの目に遇うってことは、たぶん「何かを踏み外した人」だとは思うけどさ。
 
それにしても、ちょこっとこの本関連のネットの感想を漁ってみたんですが、もうみんな「心の闇」って言葉に夢見すぎだよ!(笑)実際の事件はともかく、この本の和恵の話はネタとして、フィクションとして面白いってレベルだろ?和恵の生き方から何か感銘を受けるなんてない。この本で心に残ったことは桐野夏生の小説がものすごく上手すぎる!ってことくらい。そういう意味ですごく面白かった。もう一回読んでもいいくらい。(チャンの手記は飛ばすけど>なんかムカつくからw)