そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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サムライ・ハイスクール#9(終)

http://www.ntv.co.jp/samurai/index.html
最終回はわりと判りやすかった気がする。細かいところはいろいろ言いたいことあるけど、もうそういうとこは問題じゃない‥‥というか、最終回に至ってやっと正しい展開はこれだとわかったーって感じ。
というのはさ、冒頭でいきなり「なんかこれウテナに似てる」と思って気がついたんだけど *1 、このドラマって井上由美子でなく木皿泉に脚本やってもらうべきだったんだよな。たぶんそれが正解だったんだよ。
スタッフは演出の佐藤東弥が中途半端に被ってるくらいなんだけど、最終回の雰囲気は確実に「野ブタ。」や「セクロボ」だと思うし。なんでもっと早くからそういうセカイ系非日常不思議話の方向にもっていかなかったのか?それなら妙なとこだけ描写にリアリティあることにも納得したのに。
だって最終回のこの話見るかぎり、ストーリーとしてサムライと小太郎が岩永父に義を通すべきっていうのはトンチンカンなんだけど *2 、このドラマ全体としては要するに、どうにも太刀打ち出来ない「世界」という「現実」に対してそれに勝手に負けたと思ってる個人が戦いを挑む話だよね?その結果が勝つか負けるかというより「戦いを挑む」=「個人の生き方として筋を通す」ことが「世界」に対する「個人」のありようだっていうことに気がつく話なんだから。
そう思ったらこの最終回はちゃんと正しいもん。毎回そういう話だったら、お話としては割り切れなくても何かしらちゃんと伝わる物はあったのになあ。脚本の井上由美子が気がつかなかった‥‥というか同じように理屈で構築してるにしても井上由美子向きの話じゃないよな、これ。だって井上由美子には、何だか知らないけど世界に負け続けてる人間なんか描けないから。なんで井上由美子を連れてきたんだ?それが一番の間違いだよ。
このドラマをセクロボみたいな物として見たら、小太郎にしか見えてなかった東雲文庫と司書のひみこって、セクロボにおける地蔵堂と真境名マキだと思うんだよ。まあ実際ひみこはカフェの人形だったけど、「本懐、お遂げなさいませ」の言葉は許嫁のものだよな。でもって確かに現代の小太郎は18代後の子孫だったし。
侍が否と言い続けてたのは現実の理不尽な出来事でなく、そういうことを見て見ぬふりしてる小太郎の生き方であって、結局なんで小太郎に憑依した(出来た)のかは謎のままだったけど、侍・望月小太郎として何も出来ないまま死んでしまったことが「現実」に対して本懐を遂げられなかったということだとすれば、何も出来ないまま戦で死んでしまったという現実=世界に対して、何かを成すためになぜだか甦ったってことだよね。
でも戦国時代の侍から見たら軟弱な現代の小太郎も、芯の部分ではそれなり筋が通ってるところがあり、ただそれに気がつかなかったのはそういう本気じゃなくても生きられるのが現代だからかな。中村が小太郎の本質に気がついたのはたまたまじゃないかと思うけど。
でもこういう出来事がなければ、ただ軟弱な現代高校生としてどうしようもないまま過ごしたかも知れない子孫の小太郎の一生を救い、そして一生の親友と伴侶を与える‥‥ってのはちょっと考えたけどまあどうでもいいというかオマケというか、お話の大事なとこは、お父さんに濡れ衣リストラの筋を通させたり、校長のあり方を糾したり、岩永に自首させたりみたいな、侍が憑依した小太郎自身が「筋を通して本気で生きる」ことを身をもって周りに示し、それによって現代の小太郎自身も何もしないで諦めることは良くないことで、本気で生きるということとちゃんと考えて向き合うことでより良い人生を生きられると知る‥‥って話だったと思うんだよね。
それがこのドラマの正しさだと思うけど、よく判ってなかった脚本家のせいで、毎回なんだかよく判らないお話を延々と見せられたのかと思うと非常に残念でした。確かに毎回のプロット的にはそういう芽はあったような気はする。本当にもったいない。
なんでか春馬も作品に恵まれないなあ。彼自体は文句つけようがないくらいちゃんと判って仕事してるのに。

*1:どこがどうというより侍の立てこもり見ててなんかセカイ系のニオイがしたというか‥‥

*2:結局息子は改心したけど父親はどうしたのか描かれてない、彼にとって小太郎に濡れ衣を着せて良しとするのは彼の正義=世界の意思ってことで、個人が抵抗しただけじゃ「世界」自体は変わらない‥‥ってことなのかな。