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オーラバトラー戦記(角川スニーカー文庫版)

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富野版・聖戦士ダンバイン‥‥っていうと妙だな(笑)
ちょっと前にダンバインを全話見たんで、どうせなら小説の方もこの機会にと思って手に入れて読んでみました。
もともとは同じ話というか、時期的には「ダンバイン」放映後に連載を始めた小説ということだけど *1 アニメの「聖戦士ダンバイン」の再構築というより、「バイストン・ウェル物語」というものを青少年向けのアニメというもので一般にわかりやすくエンタメ性をもって描かれたのが「聖戦士ダインバイン」であり、もっと個人的な富野哲学を語ってるのが「オーラバトラー戦記」って感じかなあ。
登場人物は同一人物もいれば出てないキャラもいる、でも役割として同じでもない‥‥というところ。主人公は城毅、通称ジョクと呼ばれる日本人青年でこれはほぼショウ・ザマと同じ役どころ。キャラは同じなのに役割として一番違うのはバーンかな。
小説としては文章含めて小説らしくないという意味でヘタクソなんだけど、やたら面白いと感じるのはもともと富野カラーがわかってるからかも。それでも文章自体が回りくどく硬めではあるけど、論理的なのでオレは全く痛痒は感じないし、難しい単語も使ってるけど流れで意味はわかるから問題なし。一巻めと二巻目は多少(じゃないかw)ハードな残虐描写や性描写はあるけど、まあ想定内ね。
小説的じゃないっていうのは、全体として映像的なんだよね。ビジュアル的っていうんでなくて、話の展開やテンポが映像作品をそのまま小説形態に上手く引き写したというか、アニメ映像的な文脈をそのまま使ってるから非常に「わかりやすい」とでもいったらいいのかな。だから「ダンバイン」とは全く違う展開であっても、ジョクが聖戦士として戦っていくさまがスピーディで面白く感じるんだよな。
それと別に文章的に下手だなあと思えるのは、描写がビジュアルすぎてどうなってるのかわからない‥‥ってのが‥‥(苦笑)
頭の中の絵を文章として説明できてないから伝わらないというか、まあこれはそういうものだと了解すれば、あくまで情景描写だけなんで気にはならないけどね。素人小説とはまったく別の次元でヘタに見えるってだけで、その辺は小説作法の問題かな。文章表現の使い方の問題というか、映像畑の人が書く小説だと思えばそれは仕方ないことかと思えるし。文章というツールを上手く使えてないって意味でね。(それと別に加筆修正の分にやたら誤字・変換ミスが多いのは校正が間に合ってないのかと)
内容は全11巻のうち1〜4巻が聖戦士が現れてガロウ・ラン討伐、そこから物語中で3年たったところで「ダンバイン」な展開になる辺りから「東京三部作」にあたる地上界での一連の騒動が5〜7巻、地上からバイストン・ウェルに戻った8〜11巻はクの国を取り込んだアの国の侵攻とそれに対するラウの国の話。ジョクが聖戦士として自覚して、地上界に行って戻ってくるまではすごくわかりやすくて面白かった。あとアニメでは地上に行ってないバーンの適応力や騎士としての態度とか、黒騎士になり得ないバーンという意味ですごく面白いし。(だってオレバーン好きだし)
 
この小説自体は全体に難しいこと言ってるんで全部が理解できるかと言ったら半分くらい、イヤそりゃ謙遜しすぎかw 富野カラーがわかってれば2割くらいわかんないって程度だけど、それでも途中までは”物語として”すごく面白かったのに最後の二巻でワケわからんことになった?って感じ。
全体として富野さんが言いたいのは、たぶん現代の「物質文明に対する批判」なんだと思うけど、前半部分ではガロウ・ランに対する中世騎馬時代のごとき戦の話で物語を展開してて、どちらかというとそれに沿った富野さん自身の戦争史観やそれに基づいた日本軍批判とか戦術哲学的なものを語りつつ、自称軟弱な日本人青年ジョクが聖戦士として目覚めていく話で、いつもの富野キャラ的な大人びた物分りの良さや達観した精神論とかを楽しむ感じ?ここら辺は富野アニメを見慣れてれば馴染みがあると感じられるんで面白いかな。
ジョクとバーンとガラリアが地上界に出たあたり、ジョクの家でのやりとりや自衛隊在日米軍とのやり取りあたりは「善き人としてどうあるべきか?」みたいなものを各キャラの挙動で語るこれもいつもの富野節。基本は敵も味方もない人としての良し悪しの話で、それへの応えようでどう事態の収拾を図るか否かみたいなとこか。ジョクの家の事情もショウとは微妙に違うし、人として真っ当だという意味でのわかってる感がある上での人間関係のありようとかはいかにも富野風で、むしろワクワクするよ。で、ここらへんでオーラ力とはなんぞや?みたいな提言も入ってきつつ、世界というものの意志、人への関わりの話へスライド。
そこからまたバイストン・ウェルに帰ってくるところで、結構急に世界とオーラ力(おーらちから)の話になって、だんだん観念的な哲学を語りつつカオスな感じに。ジャコバ・アオンとか出してるわりに、それを思想的に便利に使いすぎて実体がないような描き方をするからあまり後の展開への身にはなってない様な気がするんだけど‥‥と思いつつ。
その辺というか後半は大幅加筆訂正が入ってるらしいんだけど、そのせいかどうか、全体にテンポが悪くなって哲学を語る部分と物語の進行が剥離して、話が進まないわりに状況はいつの間にか進んでるというだんだん怪しい展開に(苦笑)
そもそも世界が作らせた、バイストン・ウェルの意志であるという巨大オーラ戦艦の建造自体、なぜ作れたのか判らないという理屈に至っては「?」というかわかるようなわからないような。というのは世界が作らせたという観念的な部分で言ってる意味はわかるんだけど、実際的には中世レベルの技術しか持ってなく時間的にはショットがオーラマシーンを発明してそんなにたってないバイストン・ウェル世界でどうやって巨大戦艦が作られたのかについてははっきりいってお茶を濁してるって感じ?そこは突っ込みどころじゃないのかってところを、全部個人の技でなく世界が作らせたと言われてもみたいな。
この辺から富野さんのいう「世界の意志」とか「オーラ力」というものがだんだん「イデの意志」みたいなことに‥‥(苦笑)理屈としては「なぜといわれてもそうなんだからそうなのだ」みたいな感じというか(苦笑)
と思ってたら最後の二巻あたり。一体これはどう終わらせるんだろうと思いつつ、ジェリルと思われるトモヨという業の深いキャラがなんだか判らないうちにジョクのオーラ力に対して自滅?するあたりからバイストン・ウェル世界自体が崩壊して、天変地異が起って結局全滅エンド。というかこれってイデオン発動篇じゃねー?まさか天変地異で終わらせるとは‥‥(^_^;)
ダンバイン」もある意味全滅ではあったけどあれは地上に出たバイストン・ウェルの人々の魂が還っていくって描写だったからともかく、バイストン・ウェルで全滅ってのはそれ因果地平に飛んでいったとしか‥‥みたいな。そういや最後の章の「ビヨンド・ホリゾン」ってそういうことだよな。因果地平の彼方へ
まあやっぱりイデオンエンドだったわけだけど、あとがきを読んだらまんま本人が「イデオン」を殺伐じゃなくエロスでまとめたって言ってて、一応自覚はあったんだと‥‥(笑)
そういや東京で出会った中臣杏耶子をジョクがやたら好ましいものとして気にしてたんだけど(はっきりいってヤリたいとばっか言ってる)、これがイデオンだというのなら、ジョクにとっての杏耶子はコスモにとってのキッチ・キッチンかと理解できたわけですよ(笑)←富野風言い回し
つまりこの小説はオーラ力が生体力というものであれば、それは人の生きる意志であってつまりエロスに端を発してるんではないか‥‥ってことを言ってるんでしょうかね?そういう結論で?(笑)
ダンバイン」でカールビンソンの船長がバイストン・ウェルのコモン人同士の戦争を「地上の代理戦争だ」って言ってるとこがあって、それってダンバインの物語としてはある意味正しい認識だと思えるんだけど、「オーラバトラー〜」での物質文明批判ってのは、地上の人々が文明を享受することで人が増えオーラ力が増えすぎたためにバイストン・ウェルにそのつけが回ってきたから、地上の人々が今のうちに自分たちの暮らしのことを何とかしないといけないって言いたいのかな。でもそれと男にとっての「女」や「世界」と「エロス」の関係性は、富野さんの個人的な人の在りようへの思い入れ、根源的な好き嫌いみたいなところで結論づけたいと思ってる風なのでまとまってないってところかなあ?

小説の最初の方で、バイストン・ウェルは人々の妄想が作り出した世界で(どうでもいいけどそれってミンキーモモにおけるフェナリナーサじゃないかと思ったけどw )、だから地上で見知ったもので構成されてる世界であり人々の魂が安息する場所なんだってこと言ってて、それなのに地上の人がバイストン・ウェルのことを忘れてしまったからそれを思い出させようとして「世界」が働き掛けてるとか言ってたような気もするけど、最後はどうも卵か鶏かみたいなグダグダな、つまり聖戦士の役割はバイストン・ウェルから地上世界を変えなきゃだったはずなのに、結局地上世界がダメだからバイストン・ウェルもダメなんだで終わっちゃったのが、富野さんがこの世界の話をまとめきれなかったのかなあとという気もするよ。オレのこの解釈が浅いとか間違ってるんなら富野さんの真意はまた別のとこにあるのかもしれんけど、これ以上は判りません(^_^;)
 
あとダンバイン本編では特に描写なかったはずだけど、オーラバトラー(とは物語中ではいってないが)の生体機械としての存在論ブレンパワード、マッスルだのリキュールだの機械としての設定自体はキングゲイナーの発想の元になってるのかなぁと感じたんだけど、この時期からそんなことを考えてたんであれば、やっぱりそういうところの目端の利きようはさすが富野由悠季なのかも。発想が一時代早すぎるw
雰囲気としてはそれまでの富野的な作風からブレン的なエロス=生命力が介在した、「世界」を俯瞰で見て包括したものに移行しつつあるって感じもあるかなぁ。
でも富野さんの哲学は何か肝心なところを飛ばしてるって感じで、判るんだけどもどかしいんだよなあ。全体は把握できるんだけど。

*1:ほぼ同時期に連載してた「リーンの翼」というものもあるんだけど、これはオレは当時2巻目くらいでリタイヤしました。