そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

人間失格

人間失格 (角川文庫)

人間失格 (角川文庫)

 これが表紙。

角川版なんだけど期間限定の斗真の表紙のやつです‥‥ああそか、ジャニだから画像出せないのね?(なんという‥‥!)てことで画像も載せとく。
前は松ケンか。集英社版は小畑健だけど、個人的には全然小畑健の絵のイメージじゃないなあ。斗真か松ケンならよし。表紙イメージだけでもこっちを買うことを薦めたいです。
 
ってことで40年以上生きてきて相当本読んでんのに、初めてちゃんと太宰治を読みました。エラい面白かったです。
今ままでの30数年間、教科書に載ってた「走れメロス」のイメージだけで読む気になれなくてスイマセン。なんとなく若い時のはしかといわれる太宰文学のイメージだけで敬遠しててスイマセン。どうもイメージとして玉川に入水自殺した難儀な人ってのしかなくてなあ。つかそんなにいわれるほど難解とは思わなかったけどなぁ。大宰論をやりたいわけじゃない身にはw
とにかくこの小説自体は非常に読み応えあって面白かったです。別に他の作品を読もうとまでは思わないけどさ。そして意外とご近所に住んでいたのね、太宰先生。さすが阿佐ヶ谷文士村w(前に住んでたところがすぐ近所)
 
映画の感想で書いた通り、原作を読むと映画の葉蔵の子供の頃の描写はあまりにも情報不足すぎです。というか、映画の感想はあんまり間違ってなかったような気がする。というか映画と小説とはいえ同じ作品に対してひとりの人間が抱く感想なんだから間違ってないのは当たり前のような気がするけどさw
原作の「見知らぬ男の手記を縁あって紹介する」という形式に対して、映画がああいう夢の中の出来事のような体裁を取ったのはそれに対しての監督解釈なんだろうけど、その解釈自体は好きかな。でもあの太平洋戦争が始まった時期からすると葉蔵は32歳くらいってことになるんだけど、それは原作にはない描写、むしろ中原中也のことといい、太宰本人に重ねあわせたものなのかなあ。あっちの記事のコメ欄で言われたようにそれ自体幻想だという見方も確かにできるねえ。
なんとはなく映画の感想とかぶるところはあるからあんまり細かい感想は言わないけど、この手記の形式を取った小説の中の葉蔵は、なんだか手記による述懐ゆえかあまりにも夢の中で生きてるようで現実感がないよなあ。(だからあの映画の解釈は正しいと思うんだけど)
あまりにも酷い人間恐怖のゆえに人生のほとんどで道化を演じているということとか、その葉蔵の悩みや苦しみなど思うところは常々理路整然と説明されてるけどそれ自体葉蔵目線なんで、こういう人って難儀だなあって感じで逆に突き放した気分で面白がれたって感じかなあ。これ、オレが十代の頃に読んでたらどう思ったかなー。意外と馬鹿だなあとか思ったかもしれん。オレ鈍いしいい加減だから。 *1
葉蔵が恐怖してた「世間」というものが、何のことはない「個人」であり「あなた」だと理解して生きやすくなったっていうあたりからまたちょっと面白くなったんだけど、やっぱり繊細すぎる人はいろいろ気の毒だね。理解はできるけど共感はできんよ。
「人の営みがわからない」といいつつどうにもならない底辺の状況(世間の、ではなく葉蔵自身の)で生きてる葉蔵はそれでも何だか楽しそうなんだけど、悲劇なのか喜劇なのかトラかコメかで言えばやっぱりコメだと思うんだよ。葉蔵自身が世間に適応出来ない自分を酷いもんだと思いつつ、それを喜劇だと思っていること自体が悲劇的というか。(逆もまた真なり)人生を掛けた道化といえばそうなんだけど。
その葉蔵が、脳病院に入院した時の衝撃として「人間、失格」と思うその気持が、それまでのこの物語からは社会不適応者が上手く世渡りしてる風で本人以外は一向に大変だと思えなかった分、いや本人だってそこまでダメな人生だとは思って無かった風なだけに(だって自分で自分の状況をダメだと思ってる人間がそのダメな状況を受け入れて納得してんだからさ)、これは相当な衝撃だったんだなーと思わされ(巻末の解説みたら太宰自身がそう思ったんだね)、そういやこの小説は「人間失格」だったなーと改めて思ったというか。
葉蔵が子供の頃からずっと恐怖してたのは「世間」だの「普通の人間の営み」だったりだのとは語られてんだけど、本当に恐ろしかったのは「自分が罪を犯すこと」(でもその”罪”がなんなのかはわからないから怖い)ではないかなーとも思ったりしたよ。
だからことさら他人と違うことにビクビクしたり、「わからない」ということに怯えてなきゃいけなかったのかも。堀木との言葉遊びになぞらえていえば「世間」の対義語は「自分」なんじゃね? で、「自分」の同義語は「罪」なんだよ。
 
全体に苦悩し続ける葉蔵さんの言動は大変愉快だったんだけど、最後に思わず爆笑したのがちょうど第三の手記の最後のこれ。

 自分は仰向けに寝て、お腹に湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。
「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という、」
と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「廃人」はどうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前はヘノモチン。

太宰先生のユーモアはスバラシイですね。爆笑(笑)
でもその数ページあとのホントに最後の一文で涙出ちゃったよ。手記を十年たって初めて読んで、泣いたかと聞かれて何の感慨もないように言ったバーのマダムの葉蔵評。

「あの人のお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、‥‥‥神様みたいないい子でした。」

葉蔵が本当に神様みたいにいい子だったのかどうかはともかく、十年以上昔のことを懐かしむでもなく過ぎた事と突き放すでもなく(というかこのマダムのそう言ってしまった感情がなんなのか)あまりにも何気なくいったそのひとことが、逆にオレには葉蔵の、普通の人みたいに生きられなかった苦悩や哀しみを表してるような気がしますよ。だから泣けた。
斗真の葉蔵はここのとこを基調に解釈した役作りではないだろうかしら?よく知らないけど。(いいかげん)
 
ちょっとメモっとこうと思った追記。
子供の頃の手記で葉蔵が女中や下男の犯罪行為‥‥って言ってたのって、そのまんま悪戯されたってことだったのね?なんか比喩的な意味だと思ってスルーして、後の描写であれっと思ってしまったよ。それはあの時代普通のことだったのかそうでなかったのかわからんけど、何だか難儀な人だねえ。
大人になってからの雰囲気とかってことじゃなく生来そういう雰囲気があったのかしらん?顔形は可愛いってことだけど。
そういや映画では特にそういう描写はなかったけど、鉄とのやり取りで後ろから布団に入ってきてなんかやってるなあと思ったのは手でやられてたんですね?小説のもそういうことだよな。難儀な人だなあ。

*1:どうでもいいけど「絶望先生」とか「かってに改造」がああいう主人公だっていうのも、やっと本当の意味でよくわかりました(笑)久米田先生がああなのもな。