そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

Q10#9(終)

http://www.ntv.co.jp/Q10/
脚本:木皿泉 演出:狩山俊輔
なんかもう泣けて泣けてしょうがないんですけどー!一体何がツボに入ってるのか相変わらずよくわからないまま。いやわかってるんだけど説明できないw 最終回はいつにもまして泣けたよ。気持ちとか心情に沿ってるとかじゃなくて、なんかわかんないとこにツボスイッチがあるんだよ。むしろトラップレベルでw
しかもこれってものすごくめんどくさい話だよね。分かりやすく説明したり、分かりやすく理解して感動するとかもったいない感じ。そういうんじゃないんだよ。なんか野ブタ。→セクロボ→Q10ときてこの木皿ワールドが完成された感じ。むしろ分かりにくいくらいでちょうどいいみたいな。分かりにくくても理解出来ないわけじゃないもんな。そこがいい。
 
この世界は「目に見えるもの」と「目に見えないもの」があって、普通の人は「目にみえないもの」は信じない‥‥というのは、富士野月子が永遠を信じてなくて、奇跡も信じてない2080年の人間だからだと。でも奇跡は起こったし永遠もあった。2010年だからってことではなくて、信じればあるんだよ。
まあ平太がQ10のリセットボタンを押すかどうかっていうのは「奇跡」には入らないと思うんだけどさあ(苦笑)
Q10がいなくなったことで平太がものすごい喪失感を感じてるのは、それが自分が納得しない形でしかも突然だったからで、居なくなったこと自体ではないと思うんだよね。もちろん突然居なくなったからこそ、それが自分にとってかけがえのないもの、例えばサンタに願ってもう一度逢えたら奇跡だ、それ以外のものは何もいらないと思えるものなのは本当だろうけど。
だから柳先生は奇跡だといったけど、富士野月子が平太に説明をしてリセットボタンを押してくれといえば、押さないはずがないとは思う。Q10が未来に戻らないせいで560万人が死に、文明が二つ滅びて、ひとつの言語が失われるとか言われたらね。
理屈はわからないけど、富士野月子にはQ10が戻らなかったときの影響を知ることができるらしいし、その説得力もあると。まあタイムマシンがあるくらいだから、平行宇宙の可能性については研究されてるんだろうけど。
 
『でもそんなの、見えなかったらないのと同じ』(富士野月子)
確かに普通の人にとっては世の中の見えないものは現実感が薄く、それは遠くの知らない国の飢餓や戦争だったり、2年後の未来だったりするんだろうし、それはQ10と出会う前の平太にとってもそうだった。平太の場合生きてること自体が現実感が薄いことだから、余計にそうだと思うんだよね。
でもQ10と出会って「世界」が生まれてしまった平太にとっては、ロボットに恋をすることも70年後の未来も確実に現実のことだし、それを「自分を信じられるかどうか」ってことだというのなら、その本質は自分の気持ちに正直か、自分は何者であるのかを知るってことではないかと。ずっとこのドラマが、段階的に描いてきたのはそういう事だろうし。
てのは、まずありのままの自分の存在を認識することから始まって、その自分自身を肯定すること、そして他者との関わりで自分を知り、自分が世界にとってどういう存在か、自分が見つけた世界によって自分がどう変わることが出来るのか、世界(他者)にどういう影響をあたえることが出来るのか、その結果世界がどう変わるのか‥‥という自分探しと言うにはちょっと複雑な物語だよね。でも自分自身が何であるか知ることができたら自分を信じることが出来るはずだよね。
「見えない・見ようとしない」ってのは要するに考えられないってことと同じで、見ないことでないことにしたいっていうのと同じかなと。そうやって自分と関係ない世界にしてしまえば考える必要がなくて楽なんだけど、だからといって存在しないわけじゃないんだよね。確かにそこにあるんだよ。
目に見えなくても存在するものは「思い」や「気持ち」であって、それらが目にみえないから信じられないかといえばそうではないのだから。
そういう目にみえない気持ちを信じられると思うのはまず自分を信じることで、まず自分が存在して他人が存在することを理解することで、世界が出来上がっていくってことかなあ。
 
『世界はそんなに公平にはできてないのよ‥‥だから何だか複雑になっちゃって、最悪なことが起こるんじゃない?』(柳教授)
でもそれがいわゆる「セカイ系」みたいに閉じちゃわないのは、柳先生があえて「公平」っていうとおり、良くも悪くも自分に都合のいい世界なんてのはないんじゃない?ってことかなあ。Q10を未来に戻さないことで平太が酷い目に合うんではなく知らない誰かがその迷惑を被るってのは理不尽だし不公平だけど、それが「世界」というものだから仕方がないし。
でも平太が不公平だと思ってた心臓の病気のことだって、そのおかげで家族は家族として頑張れたり、Q10と出会えたりしたんだとしたら不公平だとばかりはいえないだろうし。中尾からしたらQ10と付き合ってる平太はズルイ、不公平だっていっても、中尾も平太ではないしね。そういうもんだよな。
だから自分だけが不幸だと思ってやる気なく生きてるのは間違ってる‥‥ってことかなあ。それはかつての藤丘もそうだったんだけど。
久保くんだって病気のおかげで山本さんに出会えたんだとしたら、病気になった不幸よりその不安を分かち合える人と出会えたって方がプラスなんじゃないかなあ。
まあ平太とQ10はもとより久保くんと山本さん、影山と河合さん、柳教授と小川先生、小川先生のお母さんや中尾や藤丘や校長先生にしても、必ずしもみんな平太と関係あるってわけでもなくても、その都度関係あったりなかったりする人たちのやることが複雑に影響しあって彼らの世界を作ってくれてる。そしてQ10がいたことは忘れてしまっても、Q10がいたことで影響された自分の世界は確実に今の自分を作ってるわけで。
その時々で自分と違う世界を見せてくれる相手や、自分を信じてくれる人と出会えたことの奇跡というのはあるんじゃないかなあ。というか「世界」が広がるってのはそういうことだと思うし、そうやって世界を広げていくことが「世界を愛する」ってことじゃないかなあと思う。
 
『あなたが忘れてしまっても、「Q10」はいるって信じ続けてくれた人』(富士野月子)
最初の、柳教授が平太に88歳の未来の平太からの手紙を見せたときにだいたい手紙の全文は読めたんで、平太にとっては「高校生の俺の作った想像の産物」ていうのがすごく衝撃的というか最後のモノローグが入るまでそのつもりで見てたから、余計にやたらと泣けてしょうがなかったんだけどさ。
結局卵が先か鶏が先かって話ではあるんだけど、ちょっと気になったのはQ10や富士野月子の記憶は1年くらいで薄れて消えてしまうって言ったのに、平太がQ10似の未来の奥さんに出会ったのはまだQ10の記憶がある時だよね?Q10みたいな人が本当にいたんだと思って出会うのとそうじゃないのとでは気持ち的に大分違うと思うんだけど、そこはちょっと微妙、カナ?(小首をかしげつつw)
だって覚えてる間に出会ったら当然付き合うでしょうよ。付き合わなくても連絡先は聞くでしょうよw
でもとにかく、Q10に出会う前だったら出会ってても気にしなかったかもしれない(そもそも平太は女の子と付き合うということ自体に現実感がなかった)相手と出会ってしまった。でも当の平太はQ10のことを忘れてしまったのに、その話を聞かされた未来の奥さんはその話を信じた‥‥ってのは、忘れてしまってもなかったことにはならないから、かな。
それはたぶん、平太が書いたQ10の話を単なる「空想の話」として聞いてたんじゃなく「今の平太を作ったもの、平太の世界を作ったもの」として愛したからだよね。
たぶん平太自身はQ10がどんな姿をしていたかも忘れてしまって、ただ「Q10のいる世界」を自分の世界として常にQ10を感じていたってことだよな。あ、でも「何かを見るたびにQ10に見せたかったと思うのだ〜」のあたりはちょっとブレードランナーかも(苦笑)レプリカントたちの見た世界。そういやあれもアンドロイドと人間が心を通わす話だっけ。(!)
その奥さんの18歳の平太に会いたいという願いが本当にQ10を存在させることになり、そこで初めて平太自身がそれが確かに存在していたことに気がつくという、「忘れてしまっていてもなかったことにはならない」幸せな円環状態が確立されたわけで、それは見えないものを信じる思いの強さゆえ‥‥ってことだよね。平太ではなく平太を愛していた奥さんの。
というかそりゃあQ10に、Q10のモデルの平太の奥さんがシンクロするはずだよな。おそらくQ10の中身は同じでその都度記憶を書き換えてるんだろうけど、見た目が奥さんと同じだというだけで、たぶん時空を超えて思いはシンクロするんだと思う。

その上でQ10も歌ってた「グッバイ・マイ・ラブ」、平太が出会ったQ10似の少女が演奏してた「グッバイ・マイ・ラブ」。
”グッバイ・マイ・ラブ 二人の愛が/グッバイ・マイ・ラブ 真実ならば/いつかは逢える/これが本当のさよならじゃないの”
あの状況で言うと確実に平太はあの少女がQ10に似てると思って付き合ってるわけで、でもいつか記憶は薄れてなんで彼女に惹かれたのかもわからないまま彼女と付き合って結婚して死ぬ間際まで一緒にいることになるんだよな。だからそれは真実の愛で、また会えることをQ10は知ってた‥‥のかどうかはわからないけど、「また明日」ってよりはやっぱり感覚的には「おかえり」と「ただいま」な気がするかも。
『もうすぐ、妻とはお別れだ。でも、俺がいると思っている限り、妻の笑顔もまた、この世からなくならない。』(88歳の深井平太)
オレはー、「あると信じればある」よりは、奥さんの笑顔は今の平太の世界、平太を作ってるものの一つだから、平太がいる限りなくならない‥‥んだと思うんだけどなあ。違うかなあ。ちょっとときどき言葉選び優先で言いたいこと的にチグハグな気がするんだけど、まあいいや。
そしてたぶん中尾くんはQ10がいなくなってもQ10みたいなロボットを作ると思い続け、でもその思いはきっといつの間にか”打ち切りで終わってしまった「ルナ・フルスロットル乙」の悔しさをバネに、ルナちゃんに似たロボットを作る”になってしまうんだろうなあ。それでもQ10がいなかったことにはならないから、Q10に影響された中尾くんの世界はそういう世界なんだよね。
藤丘くんの幸せはたぶん校長先生が感じてた幸せと同じものだと思うし。たぶん来年のクリスマスには親子4人で暮らせるんだよな。「そうしたい」と思うことがまず第一だから。影山と河合さんも。そう考えるとみんなハッピーエンドだな。それがQ10の残していったものだよな、目には見えないけれど。
そういや本物のひきこもりの富士野月子はどうしたのかなあ。出てこなければいなかったことになり、出てきてもボヤンとした偽モノ富士野月子の記憶とつながるんだろうな。
 
木皿作品って、なんだかちょっと懐かしくて暖かくて、そしていつも死の気配があるんだけど、それってなんか生まれる前に聞いたお伽話みたいな感じなんだよね。 *1 昔そういうファンタジーを読んだ気がするんだけど、人は生まれる前にお母さんのお腹の中で人生を生きてて、生まれるときには忘れてしまうんだけど、生まれるときに死を感じてしまうのは、生まれてしまったら人は死に向かうだけだから‥‥っていう。
何だか最終回はいつにもまして泣けて、それは感動したとかじゃないんだけど、なんていうかこの世界の有り様の複雑さゆえの美しさに泣けるのかも。
オレは佐藤健のファンかと言われたら別段そういう意味ですごくファンというわけではないし、たぶんこのドラマの主役ってタケるんでなくても構わないんじゃないかと思うんだけど(でも確かタケるんありきのこの話だったよね)、このドラマの主役をやったのがタケるんでよかったし、タケるんだからこそのあの雰囲気と佇まいなんだと思う。本当にタケるんでよかった。最終回もタケるんはカワイかった。満足。
感想は最後まで暴走してたけど満足。だって何かを語らずにはいられない。
 
思い余ってポチッてしまった。そんなに高くなかったから‥‥

『Q10』DVD-BOX

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*1:バイストン・ウェルの物語ではナイw