そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

八重の桜#30「再起への道」

http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/
脚本:山本むつみ 演出:末永創
 
会津が負けて戦が終わって、容保公の助命嘆願の代わりに萱野権兵衛が腹を切る事になった‥‥のはともかく。
殿のために命を差し出すのは武士の誉、そして会津の逆賊の汚名を返上しないうちに死ぬのが残念‥‥ってとこまではわかった。しかし戦で取られたものは戦で取り返すって、この期に及んでやっぱりまだそういうメンタリティなのかと (∋_∈)
その「戦い」はなんか別の形でってことじゃなく、まんま武力でってことだよね。
そう考えるとやっぱり家老の中で一番現状を認識してたのは(このドラマ的には)腰抜け描写だけど、西郷頼母ってことか。新政府軍が何をどうやっても会津を潰しにかかってくるから何をやっても無駄だよなあーという意味で。
八重たちがもう戦が終わったといって米沢藩に身を寄せているその半年から1年の間、まだ戊辰戦争自体は東北から函館へと続いていたわけで、ちょっとばかし会津の人たちの現状認識を疑うかなあ。鶴ヶ城が落ちて終わりってのは、まあ籠城戦の激しさと過酷さを考えればわからんでもないんだけどさ。ただあまりにも戦争そのものに対して興味が薄すぎねーかって気はするんだが、どうなのか。だって発端は会津だろよ。土方さん‥‥ (>_<)
冒頭のアメリカの新島襄が憂えた通り、多くの会津藩士は新政府に対する恨みをもってまた戦争するってつもりでいるみたいだけど、今の藩士たちやその家族の現状を見てなんでそう思えるのかという疑問。戦ってどうすんだっていうね。もう世の中の仕組みは中央で決められてるはずだよなあ。これ以上会津が報復戦争を起こせるはずはないと思うんだけど‥‥ (∋_∈)
まあ今回、明治になったその新しい世の中をまったく見せてないのは、その辺含めて次回以降のためだろうけど、まずは敗戦処理的な話ってことで。
 
そんな中、頼母さんのいう「会津の者は泥をすすってでも生き延びねばならない」という生活をしてて、八重たち食い詰め会津者は他藩で酷い扱い受けながらその逆境に耐えて、恨みを晴らすためにってのがいいかどうかはともかく、そうやって会津の汚名を返上するということが「これからは生きることが戦いだ」なら、萱野権兵衛のいう「戦い」とはまったく違う次元で各地に散った会津の人たちは耐えて戦ってるってことだよな。そう思うと泣けるわー。まじちょっと泣けた (ノ△・。)
まあ恨みを晴らすために息子を育てなければいけないと思ってる未亡人の奥方とか、(囲ってるおっさんが体目当てで助けてる的なセリフをいったのはちょっとびっくりした)、お家再興はともかく、まだ薩長と戦う気で新天地に「斗南」と名付ける大蔵さんたちは、実際のところ新政府軍に敗れたってことをどう思っていたんだろうと。てか「新政府軍」じゃなく「薩長」なんだよなあ。
戦以外で汚名挽回できないのかなあというか、世の中が新しくなっても1年やそこらじゃ人の(武士の)メンタリティは変わらないってことだよな。
そんな中で武士ではないけど戦った八重さんが、「恨みはあるけど前を向かなきゃ始まらない」といってのけるのはカッコイイんだけど、でも、それって結局男じゃないからそう思うって気もするし。結婚しててもとりあえず子供もいない、家を守らなければいけないという重圧がない八重さんにはお家再興とかあまり関係なさそうだし、守るべきものがちょっと違う感じなのかなあ。なんかそんな印象。(実際の八重さんがどう思ったのかは知らないけど)
山本家が米沢に留まったのって待遇としてそんなに悪くないからだよな。尚之助さんの縁で居候させてもらってるから体でなんかしなきゃいけないわけでもなく(一応うらさんは未亡人のはずだし)、他の食い詰め会津の人たちと比べると恵まれてたってことだよなあ。(あくまでもドラマでの描写を見る限りですが)
あえて会津を捨てて、彷徨える会津人にならなきゃいけなかった1万7千人の人たちの極寒の地での苦労を考えると‥‥下北半島って僻地すぎるだろ。(でも瞬間大間のマグロが頭に浮かんだのは否定しない)
あと会津って開城した時のまま放置なの?城下の街自体に入れないゴーストタウンってこと?片付けとかどうしたのかなあ。戦死者だってたくさんいただろうに‥‥
そしてその頃、京の覚馬さんは‥‥って感じで、時栄さんは結局覚馬さんとくっついたわけね?(wikiにそう書いとる)それもあってやたら今回うらさんをクローズアップしてたんだろか。ある意味会津の頑固なおなご代表って感じのうらさんを。次回は嵐の予感w
 
今の会津の人たちに送る言葉w @風立ちぬ