そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

八重の桜#36「同志の誓い」

http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/
脚本:三浦有為子 演出:佐々木善春
 
こないだからなんとなく思ってたんだけど、ドラマ作ってる方がそういうことに無自覚だとは思わないから意図的に混同させてる、もしくは説明してないだけだとは思うけど、キリスト教の教えを広めることと欧米式の教育を広めることは本当は内容的には別だよね。
そこはこないだ槇村さんあたりが言ってたように、欧米人の教師を雇うとお金がかかるけど宣教師ならただで使えるってだけの利便性の問題で新島襄とという日本人宣教師をウィンウィンの関係で使ったってだけの話なんだろうけど、実際のところ、あいつらそういうつもりじゃないよねえ?(それって宗教戦争的な意味でキリスト教への偏見大きすぎ?)
京都の人たちも欧米式教育に反対してるわけじゃなく宗教としてのキリスト教の教えに反対してるだけで、欧米式教育と交換条件で(当然向こうにそういうつもりはないんだろうけど)ある意味そこにつけこんで布教しようとするキリスト教は大変にずるいとは思うんだよなあ。そもそもキリスト教って日本に必要か?
学びに来てる子たちもリーダーの教科書が聖書ですったって聖書の教えを学びたい人ばかりじゃないよなあ?素晴らしい文学作品をテキストにしたらそっちでもいいはずじゃね?違うの?哲学としての真実はあると思うけど、だからといって改宗したいってほどにキリスト教が素晴らしいと思ってるわけじゃなかろうし。
というか襄さんはそもそもなんでキリスト教が素晴らしいと思ったんだろ。キリスト教だってピンきり、欧米人だってみんながみんな信じてるわけじゃないだろうに(心の中の問題で)
ただまあキリスト教の欧米を知ることで日本再発見ってことはあるから学問としてはまったくムダじゃないと思うけどね。
 
その流れでオレが気になってたのは、八重さんは果たして本当にキリスト教の教えを理解してたのか否かってことなのよ。
覚馬さんは自分が求めてたものが中国経由のキリスト教にあったって話だから、キリスト教をたぶん哲学として認識してるだけじゃないかと思うんだけど、八重さんは襄が信じるものだから自分も信じるってだけで、キリスト教自体を理解してるわけじゃないよね。いや夫婦としても正しい態度だとは思うけど、そもそもオレそういう女好きじゃないし。や、宗教は大きすぎるか、まあ趣味とかそういうレベルの話でってことだけど。
さすがに改宗って考え方は日本にもあるはずだから、将来的にキリスト教に帰依するならそこはちゃんと理解してなんだろうけど、今んとこ分かってるとは思えません。つまり八重さんは相変わらず頭が悪い田舎者だっていいたいんだけどさ。自分で考えてないじゃんっていいたいわけですよ。欧米文化スバラシイ!じゃなく、キリスト教というものが本当に素晴らしいと思ったのかと問いただしたいですよ。
襄さんは今の京都での弾圧や無理解引っ括めていろいろな試練をすべて受け入れてる、つまり神の試練に立ち向かってこそ未来に幸せがあると信じて行動してるからそれは正しいんだよね。
でも八重さんの会津の「ならぬことはならぬ」は、よくいえば道理がどうであろうと自分の信じたものを貫くだけど、悪くいえば思考停止ってことで、八重さんはどちらかというと思考停止じゃないかなと。
そんで八重さん、結局そんな大事なことを襄さんに何も相談せずに決めちゃったわけだけど、それって自分が尚之助さんにされてムカついたことじゃなかったのかなあ?いつも相談しないで自分勝手に〜とかいいながら、自分がそうじゃん。それだけでも八重さんには共感できないんだけどさ。
まあドラマ的にはそういう描き方じゃないから、なんとなく八重さんの決断は大変に男らしいハンサムウーマンに見えるんだけどね。たぶん違うと思うよ、今んとこ。オレそう思う。
襄さんのやってることは間違ってないと思うし、欧米文化の基を作ったキリスト教引っ括めて欧米文化として取り入れてそこから取捨選択をすべきだという覚馬さんの言うことは尤もだと思うんだけど、今のところどうにも八重さんの生き様は共感しかねるんだよなあ。
てことで何だかスッキリしないまま、ここんとこの展開は今ひとつだなと感じるわけですよ。この先、オレが納得できる展開は待っているんだろうか。
ところでデイビスさんの従者の杉田勇次郎の中の人って誰だろうと気になったんだけど、礼保(れお)っていうの?しかもKAT-TUN赤西の弟かよ。へー。