そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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八重の桜#39「私たちの子ども」

http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/
脚本:三浦有為子 演出:一木正恵
 
「私たちの子供」ってのは、もしかしてキリスト教における「イエス(神)の子」ってやつのつもりってことかな?神を信じるものはみな神の家族的な?
どうでもいいけど私学だから生徒が一人減るのは大変だよね。そりゃ襄や八重さんが親身になって引き止めるのは当然だけど、学んでる人たちはそれわかってるのかしら?
忘れないうちに最初に言っとくけど、お母さんの佐久さんとみねが洗礼受けたのって、キリスト教信者の襄や八重を見てて、キリスト教の人たちはいい人だという身内的な感覚じゃないのかなと思うけど。
そして襄は日本人の立場でキリスト教を学んで、たぶんキリスト教のいいところばかりを取り入れて伝えようとしているって意味では、彼は確かに純粋にキリスト教の良い教えを西洋の進んだ学問とともに、本気で日本に根付かせようとしてる善意の人だと思う。
だけどあそこで学んでる洗礼を受けたはずの熊本バンドの人たちや八重さんって違うような気がするんだよなあ。どれだけキリスト教の教えをわかってるのか。まあ熊本から来た奴らはわかってたら先週からのあんな態度取らないとは思うけどさ。
だからドラマとして一般視聴者向けにそこら辺を曖昧にして、八重とりつの和解というなんとなくいい話っぽい感じに仕立ててるのは仕方ないとは思うけど、もう最初から話の芯がぶれまくりで、見ててものすごくイライラしたよ。
でもこの学校設立絡みの話をそうじゃない風に仕立てろっていわれても、オレもどうしていいかわからないや。八重さんをものすごく空気を読まない強引強情な人だと描写していいなら別だけど。というかそういう八重さんの痛快な学校設立話を見たかった気はするんだけどさ。それじゃダメだったのか?
実際史実の八重さんってこんな優しいいい人じゃなかったっぽいけど、それならわからんでもない。そもそも会津の「ならぬことはならぬ」の精神はどこ行った?鉄砲担いで人撃ってたおなごだぞ。
あと本題に入る前に、すごく微妙だと思ったのは女学校の女外国人教師の言動ね。
 
あいつら基本的にみなさん宣教師かどうかは別としても、キリスト教の教えを基本にしてるよね。女生徒たちに対して西洋式のマナーを教えよう、女学校だから学問の他にも礼儀作法を教えようとするのはわかる。生徒たちの不満からしてたぶん学問は最低限度で教えてるだけなんだろうなあ。アメリカだってあの当時じゃまだ女性に学問はいらないとか思ってそうなんだけど。
でもさ、日本に来て日本の女性たちに礼儀作法を教えるのなら、日本のやり方を否定するのはダメじゃないかな。あれって完全に日本人はマナーの何たるかも知らない野蛮人だと思ってるから西洋式のマナーを学べというんだよね?八重や襄が日本人は武道によって礼儀礼節を知るって言ってるのに、そのことを理解しようとはしてないよな。そういうキリスト教、というか確かにあそこでは西洋式の学問を教えるってことになってるけど、彼ら西洋諸国の常識で来られても…って気がするんだよ。
まああの言動からして、襄はあくまでもアメリカ本国の教会からは雇われ校長だと思われてんじゃないかって気はするけど。もっと上がいるからこそのあの女教師の態度なのかなあ。
んでそれと同じことなのが八重とりつでさ。学問と教育は違うって話じゃないかと。
りつは八重が会津の人間だと知って反発するけど、ちょっと考えたら同じように、八重の立場からしたらりつたち熊本(薩摩も)の官軍に会津の同胞が殺されてるわけで、そのことに思い至らない、会津は賊軍で敵だと教えられてきた「教育」が問題なんであって、そういう間違った認識を正すものが「学問」の積み重ねなんだと思うんだよ。この際キリスト教の教え的なことはスルーするけどさ。
そんで八重はりつの父親がおなごの鉄砲に殺されたと聞いて謝るけど、そこで謝るってのは八重自身があの戦争に女の身で参戦してたのは、ただ家族の復讐のためだと思ってるってことじゃん。人を殺すことの是非、特に戦争での大義とその結果の人殺しのことについてもひとことでは言い切れないからスルーするけど。
でなきゃ戦争で人を殺した人間みんなが罪を背負って生きていかなきゃいけないことになるよな。
それをキリスト教の視点から人殺しが罪だという話ならともかく、そこに触れないでただ謝られてもなあ。だったら恐らくりつの父親だって会津の人間を殺してるわけで、それについてりつはどう思うんだってことになるんだけど。
なんかそこら辺、血の気の多い熊本バンド奴らにしても、キリスト教の教を学ぶとかいいながらやってること言ってることはまるで逆なんだよ。そりゃ襄さんも悲しむよな。
で、結局りつは八重に対して、八重の献身的な介護に感銘を受けて許したみたいになってるけど、そもそもそういうこと抜きで赦すのがキリスト教じゃないのかなあ。
まあドラマとしてあえてそういうのは抜いてるんだろうけど(抜き方が意図的だからたぶんわかっててだとは思うし)だから余計にモヤモヤすんだよ。そして最後の締めが佐久とみねの洗礼だしなあ。
キリスト教徒のやり方として、冒頭の女外国人教師みたいな上から目線の教育の押し付けを見せておきながら、八重とりつという二人のにわかキリスト教徒のいい話を目の当たりにして家族が改宗って流れは、相当モヤモヤします。オレは。
とにかくこのドラマの中で、本当に神の愛の実現を感じるのは新島襄さんだけかと(^_^;)
まー八重さんが本当は、「戦争なんだからそんなこと言ってもしょうがねえっぺ!」と思いながらも、生徒が辞めたら困るから土下座したっていうならまあそれはそれで(苦笑)
でもそうじゃないっぽいんで、オレが八重さんを相変わらず頭悪いバカ女だなあと思うのはそういうとこだよ。結局戦争で自分がやったことの意味はわかってなかったってこと?史実はどうだか知らないけど。そこで開き直るまで行かなくても、弟の敵を討つために自ら進んで敵を撃ち殺していたっていうならそれでいいじゃん。自分で納得して会津の人と城を守っていたんだから。それはすごいことなんだから。一応かつて八重さんは、鉄砲を撃つことは人を殺すことだ、的は人間で撃つと相手は死ぬんだという認識を持って参戦してたはずなんだけどなあ。世の中の流れがわかってなくても「ならぬことはならぬ」で自分のやるべき正義を貫いてた、あのカッコよかった八重さんはどこ行った?
まあそんな最近の日和気味の八重さんと比べると、薩摩は会津の仇だからってことで薩長ばかりの官軍の一員として西南戦争で戦った山川浩佐川官兵衛たちの方が、よほど戦争というものの重みを感じてるんじゃないかと思うよ。しかもそれをかつての会津占領軍を指揮してた大山巌に労われるとか。(だいたいこの人こそ八重さんに撃たれてるのにw)
あとまあ史実だから仕方ないにしても、みねと伊勢時雄の恋バナとか別にどうでもいいです。何か今後関係あるの?みねさんはキリスト教徒の伊勢に一目惚れしたから洗礼とか言い出したわけじゃないよね…?