そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

人間失格

http://www.ns-movie.jp/
監督:荒戸源次郎 脚本:浦沢義雄、鈴木棟也

 
原作読んでないというか太宰治は教科書に載ってる「走れメロス」くらいしか読んだことないんだけど、とりあえずどれくらい原作と違うのかと帰りに原作買ってきました。ちゃんと読みますよ?(読んだ→http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20100320/p1
 
人間失格」も太宰の自伝的小説ってくらいしか知らなかったんだけど、なんだかヘンテコな映画だなあ(褒め言葉?)って感じ。周りの生田斗真目当ての高校生とか若いギャルたちは「全然意味わかんなかった」って言ってたけど、そうだろうそうだろう(苦笑)でも話はよくわからなくても葉蔵がとんでもないダメンズだってことくらいはわかってもいいと思うぞ?あまりにもダメンズ過ぎて笑えたよ(笑)
どこにいっても男女関係なく、いやほとんど女だけど、みんな葉蔵さんに釣られすぎ!彼はあまりにもピュアなダメンズ体質かと。純粋というより子供みたいに無垢というかピュア。しかもときどき確信犯だしなー (^_^;) キスしてあげるから薬くれじゃないよなw
つーかあんだけ見ばがよくてふわふわした所在なげな子が可愛こぶってお金ないんだーとか言ってたら、そりゃーみんな私が何とかするわって言っちゃうよ。というかそんなに判りやすくねだってるんでもないから始末に悪い(笑)オレでもウチに連れ帰るかも知らん。わはは。ずっとせびってたのは堀木だけだが、ひょっとしてそれも愛情か?金の切れ目が縁の切れ目ならな(笑)(いいけど隣の女子高校生、「5円貸してくれ」の意味がわからんって、単にキャラ付けだぜ?わかろうよ)堀木が葉蔵のことキライだったってのもよく判るけど(笑)
斗真は良かったです。カワイかったよ!なんとなく所在無げな暗い瞳した葉蔵、原作と同じかどうかしらんけど、この映画の葉蔵としてはちゃんと成り立ってた。途中で「これ生田斗真だよなー」と正気に返ったりも思わんかったし。
最初、あまりにも説明が少ないんで映画自体に入り込めなかったこともあって、斗真の今風のルックスが伊勢谷とかに比べると妙に浮いてるなあと思ってたんだけど、見てると逆にあの印象のなさがいいというか、容貌だけは良い繊細なダメな男として妙に説得力はあったような。
キャスティングでいうと伊勢谷はああいう時代性のものとしてはいつもどおりにインチキな人だったし、女優陣もみんなハマってたけど、中原中也森田剛がなんか異色だった。いや中原中也森田剛がやっていいのかって意味でだけど、役自体は良かったよ。オレの森田剛観が変わるくらい(笑)でも本人の写真のイメージからしてああいう中也でいいんだー‥‥って感じ?ああでも詩のイメージだと森田剛でもいいのか。いやオレだって中也の詩集くらい持ってますけどねw ちょっとビックリしたというか。
 
映画はなあ‥‥なんというかヘンテコ。映像的には暗くてありがちな邦画風ではあるんだけど、途中中也と葉蔵のトンネルのシーンから妙にファンタジックになって、花嵐とかなんかときどきファンタジーなんだよな。アクセントとしては効いてるけど全体が結構長いんでちょっとバランス悪い気もする。
冒頭の子供の頃の見せ方や女性との顛末とか、テンポよく切り替えててその辺も面白いんだけど、とにかく弛れはしないんだけど、目立った盛り上がりもないから全体にはちょっとだけ長いかなあ。
監督の荒戸源次郎さんは鈴木清順門下ってことみたいですが、清順監督の映画に興味は特にないのでそれはそれでって感じ。でもパンフのインタ読んだら監督さん自体は結構面白い人みたい。
ただ原作を読んでない人間にこの映画の葉蔵がわかりにくいのは、冒頭の子供葉蔵がいう「生まれてきてすいません」というのが何を指してるのかわからないことだと思うんだよなあ。一応原作も読んでないんでパンフの斗真のインタは読んでみたんだけど、子供時代のシーンで描かれてることの意味が、自意識過剰とか自分の恵まれた境遇を申し訳ないと思う気持ちであると感じられなかった(少なくともオレには)から、青年になった葉蔵がどうして自堕落に生きてる(という風にもとれなかったけど)のかもわからないというか。
というか普通の自堕落描写だと飲んで酔ってるのは逃避だったり人間が弱かったりってことなんだろうけど、葉蔵ってそうじゃないというか、酒飲んでるときやモルヒネ中毒の時が普通に見えるというか、常に堕落した状態じゃんよ。本人の心性が常にある状況の底辺をぐだってるというか、だからまともになってる時のほうが嘘っぽいというか(苦笑)
心中しようとしたりするけど、全体にはただ流されるままにあちこちで女にいい顔して家に転がり込んだり、普通の暮らしをしてみたりしてるけど、積極的に自己破壊衝動とか何かを決める主体がないまま無駄に生きてる人というか、ダメ人間というか残念な人というか、特に好きなものもなくやりたいこともなく、ただただ無駄に生きてるだけの人なんだよなあ(苦笑)女と快楽を追うわけでも仕事に打ち込むでもないしさ。吐血しても本人は確かにあー良かったって感じだし。
最後の親子みたいな関係〜とか言いながら葉蔵とやっちゃってるお鉄さんのシーンの(あそこはもうダメンズ極まれり‥‥だと思ったけどw)、相手が擬似母親ってことでもう一回生まれ出る、その後何も言わず東京に行って(だよね?)12月8日の開戦の報を聞きながら安心したような表情で終わるのも、あれはあれで意味はわかるんだけど、斗真のインタ見て葉蔵の中では母親不在で、だからずっと母親を求めていたって、それ聞くとああとは思うけど、そういうのと「生まれてすいません」とが映画の中ではなんとなくちゃんと繋がってないような気がするよ。
 
映画としてはヘンテコ風味(褒め言葉)で斗真も伊勢谷もいいので目には楽しいんだけど、斗真の大庭葉蔵という役に対する意気込みや仕事っぷりを、映画自体の出来が邪魔をして素直に楽しめなかった‥‥と言ったら言い過ぎかしらん。斗真の葉蔵に不足はないんだけど、映画としてもうちょっと葉蔵のイメージをはっきりさせてくれてたら、もっと楽しめたってとこかなあ。そしたら高校生くらいだってちゃんと意味わかったと思うんですが。そういや、女子高生的には三田さんはもとより年上とやるのはナシってことらしいです(笑)そういうもんでもないよ?w
 

コメントレス書いた後に追記。

そうそう、この映画ってバーでアヴェ・マリアのレコードがかかってそこに突っ伏してる葉蔵で始まって、最後はレコードが終わってラジオをつけたらパールハーバー攻撃で開戦したというニュースの中葉蔵が目が覚める‥‥で終わってんだけど、だからこの映画自体が、葉蔵が夢の中で見た半生を描いたもののようにも感じるというか。最後まで見てそう気がつけば、妙な展開の早さとか変にファンタジックなシーンとか含めて、夢で見るようなイメージの集まりかとも思えるんだよね。
隠遁生活の中でイメージ的に生まれ直した自分があって、その後?東京に戻ってきたのか何なのか、「生まれてきてすいません」をやり直せるのかそうでないのか、自分のダメすぎた半生を思い描きつつこれからどうしようみたいな不安なのか、そういう意味でいろいろ考えさせるようにはなってるのかなあ。
そういう意味だと最後の列車のシーンも、もうあそこで葉蔵は半分死んでるみたいな感じにも受け取れるし(銀河鉄道的な)、これからまさに国家として死にに行こうとしてる状況をそれとダブらせてるのかなー‥‥ってのはオレの解釈で。