そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

輪るピングドラム#22「美しい棺」

http://penguindrum.jp/
シリーズ構成・脚本:幾原邦彦伊神貴世 絵コンテ:幾原邦彦・古川知宏・山崎みつえ・中村章子 演出:市村徹夫 作画監督:加々美高浩・いしかわともみ・中村章子・中村深雪
 
眞悧さんは幽霊というより呪いだったよ。高倉両親も呪い。それは感覚的にはよくわかる。
呪いの具現化って意味では「リング」みたいだなあと思ったけど、冠葉が両親の影に従って事を成すってのは呪いだよな。でも眞悧さんは実体化した呪いだからまた別の存在かなあ。結局あの3兄妹は過去にいつまでも操られてたってことか?
今回やっとと云うか初めてと云うか、ダブルHの本物が「今まさに会いに行きます」で陽毬のとこにやってきたけど、なぜこのタイミング?なんか意図があるのかなあ?(それともないのか)
だってあれ、眞悧の差金に近いよね。本当に好意かどうかわかったもんじゃないし、今陽毬のところに来ることの意味って考えちゃうよ。だってあの子ら、一度陽毬を捨てたんだよね?いいけど、あの子らも赤坂見附なのか。冠葉が付き合ってたモデルが怪我したのも、ゆりさんのマンションも赤坂見附って、なんか意味あるのかな?
ほのぼの日常アニメが気がついたらなんか妙なことになっていた‥‥っていう、そのいつの間にかの感じとか、なんだか栗本薫の「ゲルニカ1984年」を思い出すんだけど(これって元ネタあったんだっけ?)、要するになんだか正体の知れないものと戦ってるような漠然とした不安というか、剣山たちがやってたことってそういう目に見えない敵と戦ってるようなわけの分からなさってあったからか、そこに呪いとか言われると相当オカルト的な感じ。
いやまあ、企鵝の会はともかくその怨念的なものは明らかにオカルトだけど。真実が個人の内面にしかないっていう意味でオカルト。オカルトとカルトは似てるよね。
だからなんかもうまさに「少年(冠葉)よ、我に返れ」って感じだけど、どうして冠葉が企鵝の会のテロ行為のリーダーにならなきゃいけなかったのかなあ?他にいなかったの?会の実体がまったくわからないから余計にそう思うと云うかオカルトチックだと云うか。つか、ペンギン(あれ幽霊じゃね?)とプリクリのことはどうなった?というか、意味として何だったの?何を意味してたの?
幻想と現実、物語の見せかけ自体がどこからどこまでが本当のことなのかわからないから何を信じていいのかって感じだけど、むしろ集団幻覚に近いんじゃないかなあって気もするし。
そういや陽毬はどうやって冠葉のいる企鵝の会のアジトに行けたの?

血がつながってない妹の陽毬に止められ‥‥って、ペンギンたちが内面を表してるのならあれ、陽毬って性的な意味で誘ってたってことなのかなあ?血が繋がってないって思いだしたもんなあ。
でもすでに冠葉って、そこにいる本物の陽毬じゃなくて自分の脳内の妹である陽毬にしか興味ないんじゃなかろうか?って気が。
そして本当の妹の真砂子に止められるけど、それも聞いてないし。つか「いけぺんぎん」ってなんだ??何もかもがペンギンなのは何か意味があるのかなあ?
そして実際にテロ行為を始める冠葉の、テロで爆破される場所に「FLOYD「狂気」」っていう垂れ幕があるのはわざとじゃないよね。すでに狂気の虜だよね。実体や姿の見えない、何かわからないものと戦ってるんだよね?
池袋の地下深くで囲まれたのは何に囲まれたの?普通に日本国の警察だとは思えないんだけど。すでに何かの幻想の中にいるんじゃないの?
そして陽毬が冠葉を追いかけて出てきたところはサンシャニー水族館。そういや、前に倒れた時の陽毬が体験した幻想の中で、水族館から降りたとこにある幻想の中の図書館の分室で眞悧に会って、そこから戻ってきた描写ないよね。まさに今戻ってきた‥‥ってことかなあ。あれで命をもらったからまたここで命を返して、結局陽毬の命はそこでなくなるってこと?
なんか冠葉の行動や状況と、繋がりそうで繋がらないよ。
そしてサブタイの「美しい棺」は真砂子が言った、企鵝の会に冠葉が犠牲になって残ることで真砂子とマリオが助かったことだとすれば、それは自己犠牲の美しさを否定してるってことだよね。
子供の真砂子は現世的な強欲で幸せになるということを否定して、自己犠牲して世界を、誰かを救うことを美しいと思ってたけど、「その電車には乗らない」という今の真砂子は、その自己犠牲は誰も幸せにならなかった(少なくとも自分は幸せじゃなかった)から、棺桶だというんだよな。と言うことは自己犠牲は欺瞞てことか。
だからかつては真砂子たちのために自分を殺した、今は陽毬のために自分の命を与えようとしている冠葉を肯定できないんだよな。冠葉の自己犠牲は、誰も本当の意味では幸せにはならないという。

そういやゆりと多蕗だけど、多蕗の云う「世界中の子供すべてがすでに失われた子供で、誰かの愛してるという言葉があればよかったんだ」というのをストレートに解釈すると、「こどもブロイラー」は本当に単なるそういう子供の精神状態を表す比喩描写ってことになるよね。
多蕗やゆりが愛されてない子供だと思い込んでたから、陽毬は自分がそういう状況だと気がついたから、こどもブロイラーに「いた」ってことになるよな。
というかさ、自分をいらない子供だと思ってる子に、「君は必要だ」といっても本当の意味では届いてなかったってことなの?必要だってことと愛してるってことはそんなに違うのか?
EDあとに10年前の子供の晶馬が檻に入れられてるけどどゆこと?やっぱり晶馬もいらない子だったの?
そもそも晶馬って企鵝の会的にはいらない子だったよね。親に構われてないけど(だからといって愛情がないわけじゃないと思うけど)それでもいらない子の陽毬をこどもブロイラーから助け出すことはできた‥‥ってことは、桃果みたいなもんじゃないのかなあ?冠葉は自己犠牲しないと誰かを助けられないけど、しかもそれが正しいと思ってるけど、もしかしてそうじゃないんじゃないかなあ。晶馬が心に何を持ってるか‥‥であと2回、なんか違う展開にならないかなあ?
結局ピングドラムってなんなの?日記はそれを手に入れたい眞悧のフカシだったっぽいし、それがあれば陽毬が死ぬことはないっていうなら、それが比喩的な意味なら「愛」の言い換えだと思うけど。(前回の感想で言ったけど陽毬の病気は絶望に至る病だとすれば、それを治すことが出来るのは真実の愛じゃないかと思うけど)
ただそうすっと「運命の乗り換え」の意味が分からないんだよなあ。桃果がやってた運命の乗り換えが現実的な意味で何かに働きかけること(運命を握ってると思われる何かと戦うこと)で変えたのなら、変えたこと=乗り換えといえなくもないんだけど。実際桃果がやってたのはそういうことだと思うけど。
そしてたぶん、企鵝の会も眞悧の呪いに囚われて、何かわからないものと戦いすぎ。そして彼らのその乗り換えの代償は高すぎると思うし、そこに自己犠牲の美しさもないような気がする。彼らの生存戦略は常に自分だけの愛の林檎のような気がする。(だんだん言ってること分けわかんなくなってきた。というかこの感想誰か読んでるのか?自分が楽しいだけな気がするぞw)