そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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ワームが許されないわけ

 はすはなちゃろぐ http://d.hatena.ne.jp/lotustea/20060520/1148102738
はすはなさんとこにコメントしようと思ったけど長くなったのと、この間から天道の使命感についてちょっと考えてたんでその辺のことを。

若林ゾロゾロ、私はlotusteaさんのいう対比には気がつかなかったので、その辺は成程と思いました。(←コメントしようとした名残)


今回の加賀美サイドの話が判りにくいのは、加賀美がワームを倒すこと=存在証明じゃないからなんですよね。そして天道が必要としているのは「ワームを倒せる人間」ではなく、「自分の行く道を知ってる人間」でしょうか。
こないだウチで書いた考察とはちょっとだけ相反するんですが、天道は加賀美のことを基本的には気に入ってると思うのですね。自分と同じ道を歩く人間だと思ってるといってもいいでしょうか。だからこそ加賀美が自分を越えるといった事に対して、言葉にこそしないけど越えて見せろと思ってるだろうし、自分との友情ごっこよりもザビーとしての使命を優先してカブトに攻撃したことに対して微笑んで認めてくれてる(と思う…)んですよ。


「人を殺す」ということはその人の自由を奪い人格を踏みにじることだというのはどこかで聞いた理屈なんだけど、まさにワームがやってるのはそういうことで、今回の若林医師やこの間のシャドウ隊員との契約にしても結局は殺すんだから、ワームが人間に擬態するって事はそういうことなんですよね。
ワームの生態はまだ語られてないから、なぜ擬態するためには殺さなければいけないのかということはハッキリとは説明されてないけど、今のところワームにとって誰かに擬態するということはその人を殺すということと同じ意味である。
その人自身というのは能力や人格、肉体をひっくるめてのその人そのものであるから、ワームが擬態した時点でそれはもうその人ではない。ワームが加賀美の弟・亮の記憶もコピーしたから亮が自分の中に生きているといっても、弟そのものではない。弟を殺し擬態した時点でそのワームは亮の自由を奪い、人格を踏みにじった。
だからワームが若林医師に擬態してこれからも患者を助け続けると言ってもその一方で人を殺してれば意味はないわけで、天道にとって人を殺す「何か」は明らかに敵というか許されない存在であるという判断なんですね。(ついでにいうなら、任務のためなら一人くらい死んでも構わないと簡単にいう影山も許せないんだと思う)


これはlotusteaさんも書いてることなんですが、天道の「俺様」は唯一無二な自分自身が何よりも大事だという価値観から来ている俺様で、だから他人と比べない、他人を貶めないというオンリーワン発想である。そして自分がそうだからそれと同じように他人の唯一無二性も尊重する。
他人を大事にするというのは他人の意志を尊重すると言うことでもあって、4話といい10話といい、常に加賀美のことは加賀美自身で決めさせてるのもそう。ザビーの資格を失った矢車が素材を活かした麻婆豆腐を作ったときに、「お前はお前だけの麻婆豆腐を作れ」と言ったこともそう。
もし仮に天道が誰かと危機に陥ったとき、どちらかが助かればいいという自己犠牲で相手を助けたり、他人を犠牲にして自分だけが助かるなんて発想はないわけで、それが天道の言う「二兎追うものは二兎とも取れ」ですよね。だから1話での加賀美の無茶な自己犠牲も批判する。
そういう天道だから、その人間の存在の意味を無くすような擬態を行うワームを許せないんですよね。
それ程までの決意でワームを倒すことを考えてるとしたら、天道にとってワームを倒すことと何かを秤にかけたとき、加賀美を手助けしてやるという甘い考えは出てこなくなったというか、加賀美が自分で何とか出来る人間じゃないと天道はそもそも興味を抱かないんじゃないかなあという、えらい厳しい話になってしまったんですが。


ただ判らないのは、そんな天道の使命感はどこから来るのか?ワームが許せないからというだけでいつか来るという日のためにただ鍛えて待ち続け、自分の人生全てをかけてワームと戦うという決意、その思いと意志の源は何処なのか。この天道というキャラを形作る根っこの部分、これが知りたいんですよね。(結局使命感までは判らずじまい。そういうキャラだからといったらそれまでなんだけど)