そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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世界の殻を破る

今週のカブトで、ひよりが擬態天道にしたことは本当に酷いと思うんだけど、まあそれについてはquon913さんの言うように(※コメント欄参照)そこまで米村さんを糾弾する気にはなれんのは、基本オレが「カブト」を好きだから、そのカブトの構成要素、オレが非常に好ましいと思ってる部分が米村さんの作家性によるものだろうなーと思うんでちょっとくらいのことなら「まあ別にいいか」ですんじゃうってこともあるんですね。逆に言えばそんなことよりも魅力に思ってる物があるから米村印のカブトが好きなんですよ。*1(井上要素はちょびっとでいいデス)

ただちょっと可能性として考えた米村さんの上手くなかったところですが、この人、Sh15uyaのエマとツヨシと同じことをひよりと擬態天道でやろうとしたのかなーと、ふと思ったんですね。
Sh15uyaはオレはあのオチからし*2 いつの時代の少女マンガだよ!と突っ込んだくらいガッカリさせられた…というか、あのオチにしてももうちょっと持っていきようがあっただろというのが、(その過程で別の新しいことを見せてくれたにしても)そりゃないよなぁと思っちゃったんですね。だから監督も田崎だし*3、オレとしては特に好きになる要素がガッキー以外になかったんですね。
 
今回のひよりと擬態天道のいう「世界の外」はSh15uyaで言うところのエマの中のバーチャルな「シブヤ」で、ある意味「自分たちに都合のいい世界」なんですね。そこにいるのは15才の子供ばかりだったように、ずっと二人だけの世界(子供の考える世界)にいたかった擬態天道と、そこにいるほうが心地いいと思う、思い込もうとしてるひよりというのは、まさに「シブヤ」で永遠に生きている15才の子供たちと同じなんじゃないかと思ったというか。(Sh15uyaの詳細はもう覚えてないんで細かいとこはゴメンナサイ)
ひよりがオリジナルの天道に戻ってこいといわれて現実の世界に自分の居場所を見つけたときに、擬態天道を全く省みなかったのはそういう意味では判らなくはないんですね。ひよりが見限ったのは擬態天道そのものではなく、擬態天道が望む「二人だけの世界」であって、そこで振り向いてしまうとひよりは二度と世界の殻を破ることが出来ないんですよ。「自分のいない現実世界」ではなく「自分もいる現実世界」を肯定しないといけない。それがひよりがワームであろうとなかろうと「天道が望む世界」であるから、擬態天道ではなくオリジナルの天道に同調しないといけないんです。なぜか?
まあこれ言っちゃうと身も蓋もないんだけど、カブトの主人公である天道総司は常に「正しい」からなんですよ。でもSh15uyaみたいな物なら主人公達の決断がどうであれ「そういうもんか」ですんじゃうんだけど、カブトみたいな話で「主人公だから正しい」というロジックが「見える」のは上手くないなあと思うんですね。
 
だから何がまずかったかっていうとその結論への持っていき方が有耶無耶というか、米村さんらしい主人公中心主義というか、描きたい物のためにその道筋や手段は選ばないというか、はっきり言って少女マンガや同人マンガ並のリアリティしか持っていないというか、そんなとこ?キャラクターに対する考えが深くないんですよね。(演出段階で改変されてる可能性はありますが)
だからキャラが葛藤しない、何となく結論に向けて流れていってしまう。それはストーリーの流れではあるんだけど、そのストーリーにキャラの「感情」は考慮されてない。キャラクターの描写がされてるようで、実は「何をどう考えてそうなったのか」の部分がすっぽり抜け落ちてるんですね。
ひよりが現実世界にいたくないと思った理由は、そもそも世界を敵に回してでもひよりを守ると言った天道と何らかのやりとがあって出された結論じゃないし、ワームというものの実体を知らないはずのひよりに自分がワームだからという葛藤があったわけじゃない。だからひよりの行動が全く理解できない、どうして現実世界にいられないのかと思ったのかが判らない。
擬態天道の方もどうしてオリジナルを殺して、なおかつひよりと世界の外で生きていかなければいけないのかが判らない。簡単な話、オリジナルを殺して入れ替わって、現実世界にいればいいのにと思うんですよ。そのためにオリジナルを消そうとするんなら判るけど、そうじゃない。彼の目的はひよりと共に永遠に「世界の外」で生きること。(それがひよりの望むことだから?)
それなら本物のひよりは帰っちゃっても、ひよりを擬態したワームと一緒にいればいいんじゃないかと思うんだけどさ(笑)*4 そう思ってしまうほど、擬態天道のひよりへの執着の理由は描かれてないんだよね、「ずっとひよりのそばにいる」と思ってた時のオリジナル日下部少年が感じてた感情ということ以外は。
 
上でいった「ひよりがオリジナル天道の望む世界を肯定したい」と思う理由、なぜ天道を「正しい」と思うのかですが、擬態天道の「僕がそばにいる」に対してオリジナル天道の「そばにいない時はもっとそばにいる」(6話)かなと思ったんですね。たぶんひよりのそばにいられなかった天道少年におばあちゃんが言った言葉だと思うんですが、それを納得できるのは天道少年が成長していったからですよね。守るってのは、必ずしもそばにいなければいけないわけじゃない。
そして、ただ一緒にいるだけの擬態天道、逃避場所としての世界の外、ひよりは自分が現実の世界にいないほうがいいと思ってるから擬態天道と一緒にいることは現実逃避だってのは判ってる。(ひよりは擬態天道と一緒にいるときに楽しそうにしてたことは一度もない)だから本当は天道の言うことを信じたい、正しいと思いたい。これは加賀美が指摘したとおり、帰りたいんだけど帰らない、帰っちゃいけないんだと強がってるんですよね。
だから天道が、たとえそばにいられなくても「自分のいる世界を守る」と言ってくれたことで、自分が現実世界に存在してもいいんだということを受け入れ、ひよりは自分の世界の殻を破ることが出来た。
決定的なのは、自分の存在意義について揺れているひよりにとっては『ずっとそばにいてあげる』という擬態天道よりも、『ひよりが生まれてきてくれたことが嬉しい』と、ひよりが何者であれ、その存在自体を"全肯定"してくれるオリジナル天道の方を選ぶのは当たり前なんですよね。たぶんこっちの方がひよりにとっては大きかったんでは?
だからひよりにとって天道は「正しくなくてはいけない」んですね。
米村さんの脚本は、それが正しい結論だからそうならなければいけない、なんですよ。ひよりの感情とかなくても問題ない、そこが感情的に物足りなく、カタルシスを感じない理由でしょうか。ストーリーにひよりの葛藤、擬態天道の想いは必要ない、天道がそう望んでるからそうなる、ってことですね。
Sh15uyaでは結局最後、エマと一緒に虚構のシブヤに居続けることを選んでしまったツヨシだけど、カブトではひよりは擬態天道の世界を振りきって、外の世界に出ていくことを決意した。それはひよりにとっては振り返ってはいけないことなんですよね。(目先の演出としてではなく、「シーンの意味」として)
書いててだんだん話がズレてってんだけど、何となくニュアンスで…
 
最初のころこんなことを言ってたんですが、なんか別の意味でウテナちっくになってきてる感じ。
最終的に天道の望む世界を作るのがカブトなんだろか?ベルトってのは天道に与えられた「世界を革命する力」なんだろか?天道は世界の果てに辿り着くことが出来るんだろか?
 
なんかさ、カブトってひょとして「セカイ系」なのか?

*1:ちょっとだけ米村さんを擁護してみると、この人の基本って「少女マンガ」だと思うんですね。だから少女マンガが少女マンガであることに対して突っ込むのは意味ないかなーと思うんだ。この場合、「キミとボク」しかいないちょっと悪い意味での少女マンガってことなので、ライダーだとちょっと食い足りなくなるんだよな、たぶん。上手く周りのスタッフがフォローしてくれればいいんだけどねー。

*2:バーチャル「シブヤ」がエマの夢の中の世界だったことよりも、結局その誰もいなくなったシブヤでエマとツヨシが出会うという「永遠」を描いているということの方…ね。

*3:最初企画を聞いたときに白倉&田崎の企画って聞いてて、米村さんて誰?だったんだけど、今のカブト見てるとまさに米村さんの世界だよなあ。

*4:ところでひよりはネイティブ、擬態天道はワーム、これは何か違いがあるんかな?天道は擬態に対してはワームだから危険という認識をしてたけど、ひよりはネイティブ。ネイティブはワームじゃなくて人類の味方という認識なのか?ネイティブ立川のいう「人類の味方」にしても客観的なことではないし、ZECTがネイティブと協力関係にあるからというのもイマイチ説得力に欠けるんだよね。両親に擬態したネイティブのことに関してもそうだけど。もしかしてそれ以上に天道に、ネイティブが絶対に人類に対して危害を加えないという確証があって、まだそれが描かれてないだけという可能性もあるけどさー。あ、これはちょっと脱線ですが。