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「妖奇士」の「物語」

「人は、物語なしに生きてはいけない。」


2クール目に入ったときにあちこちでもっと早く狂斎を出してアトルと絡ませてれば・・・という意見を見て、そりゃ違うだろ、と思ったとこから考えてた「妖奇士」の考察などを、また思いつくままに書いてみた。


違うだろ、と思ったのは狂斎の役割というか、単に子供を出して視聴者に感情移入させるとか、アトルとの恋物語で作品に華を添えるとかそういうことではなく、語り部には違いないんだけど、この「妖奇士」の物語においてはもっとメタな物語の構造的な部分を描写してるように思ったんですね。
どういうことかというと、1クール目の演出にやたらカメラ目線の、視聴者に語りかけるようなセリフがあったりすることが、そもそもが「これは物語ですよ」という記号的演出がされてたんだと思うんですよ。
実際「黒船が来るまであと十年」なんて、これが物語だから言えるのか、(いるとすれば)語り手自身が後の世にいるから言えるのかどっちかだろうってとこですが。
で、2クール目の初っぱな、それを更に強めた・・・というか証明したのが、いきなり明治17年河鍋暁斎(狂斎)が子供の頃に出会った奇士たちと妖夷の物語を語り始めるところから入るという展開。
これは語り手である狂斎の口から語られるということで、これが「奇士たちの"物語"」であるという約束事を一層強める働きになってます。だからそれ以降、1クール目にあったようなカメラ目線の語り掛けは無くなってますね。(確か一度だけあったけど)


これは展開的に計算されてたんだろうと思いますが、1クール目でそれとなく「物語」だということをメタ視点から描写しながら、それが誰のフィルターもかかってない事実だという風に見せてます。脚色のない状態ということです。
内容的にも掘下げて描かれてるのが往壓の内面の問題であって、往壓が現状を認識するという話になってます。これは誰かの語りで描かれると往壓自身の言葉や考えでなくなるから・・・というのが、事実の描写を強めた展開で見せてるということだと思うのですね。
そして2クール目は子供時代の河鍋暁斎の目から見た奇士たちの物語で、この荒唐無稽な妖夷との戦いを語ってます。実際暁斎が語ってる相手は妖夷の話を最初からありえない物語として受け止めてます。ありえない話だけど、暁斎は実際に見たし体験した・・・という前提で語ってます。傍観者ではあるけど近しいところで体験した人間の話、というか暁斎自身異界を垣間見てるし。それが聞いた話ではない、自ら体験したこととして伝えられてます。でも伝えるという時点でそれは「物語」になるわけです。それが2クール目のお話。


ところで本来なら、2クール目の話が暁斎の語りから入ったのなら、暁斎の語り、つまり物語の構造からしたら明治である"現代"に戻ってきて締めなければいけないはずですが、そこはたぶん打ち切りの余波で削られたんだろうと思われます。
どこまでが暁斎の語りのつもりだったのかは判りませんが、最終回で江戸に戻った狂斎が「奇士はもうみんないない」といってるところから、暁斎の知っている奇士の物語はこの印旛沼の一連の事件で終わりなのかも知れないですね。打ち切りで短縮されたかどうか、どのエピソードで切るかは関係なく、狂斎が奇士達との関わりを断たれたという発言が、暁斎の語る奇士の物語のラストエピソードということです。もちろんこれが「妖奇士」自体のラストエピソードでも構わないわけですけど。(そのわりにその後も狂斎は奇士たちと付き合ってるわけですが)
この話が「物語」だというのはもう一つ、最終回のタイトルが「幕間」だということです。
これは芝居用語で芝居の途中の小休止ということですが、総集編ならともかく、最終回なのに幕間はおかしいですね。(大百足の妖夷を退治した以降の人々の噂話の辺りはそれに相当すると思いますが)というかよりこれが「物語」なんだということを印象づけるためのものと取るほうが、タイトルの意味としてはしっくりきます。実際暁斎が出てきた総集編の13話では「地獄極楽風聞書」となっていて、風聞、つまり噂話という言葉を使ってます。玉兵が聞きかじって調べたことを狂斎に教えるんだからそれも正しいんですが、何となく「聞いた話なんだけど・・・」という感じの、真偽半分の物語っぽい始まりかなと。そしてそれは最終回で玉兵親分が奇士の噂を広めて回ってるって事で、また上手く使われてるわけですね。
最後も、同時期に描かれた物語と並べてみることで「妖奇士」がそれらと同じく物語のひとつですよ、と言うことを謳ってんだと思いますが。


もし本当はこの作品が1年間だったとすれば。1クール目は往壓が異界にいったというアトルと出会うことで、今まで自分でも覚えてないような何かから逃げて、自暴自棄な自分を見つめ直す事になった話。*1
2クール目は往壓の自分探し。自分は何者なのかを知って大人に成る話ですね。そして3クール目は西の者たちの企み。で、最後の4クール目がアトルの自分探し・・・だったんじゃないかなあと思うわけです。だからホントはこれからが結構なスペクタクルなバトルが展開するはずだったのでは・・・?OPみたいな。そう考えるとやっぱり勿体無いですな。
まあ終わったものは終わったって事で、往壓とアトルが自分を見つけたそのあとで奇士の活躍する物語があるとすれば、それはまさに最終回のラスト、人々が噂する奇士のアヤカシ退治の物語に帰結するんだと思います。人々は物語を欲し、そして物語は続いていく・・・まあそれもいいさ!

*1:放映当時からずいぶんと評判の悪い往壓の過去だけど、今の倫理観で考えるから悪いんであって、割りあいに当時の江戸風俗を考証してるこの作品からしたら結構妥当な、ありがちなことだったのかもと思うんですが。江戸時代って確か結構ちゃんとしてたわりには性に関してはおおっぴらだし、切捨て御免で人が殺されるような時代だよ?往壓のやったことは罪だけど、劇中では解決してるからいいんではないかと。