そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

セクシーボイスアンドロボ#通過儀礼

セクロボの最終回を見て「判んねー」といったものの、コメント返しをしてて何となく判ったことを。録画は見返してないけど。(セクロボ#11感想→http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20070620/p1


結局このドラマってニコの通過儀礼の物語だったんだよな。大人になるってどんなことなのか模索してる大人びた目線を持つニコが、子供のまま生きてるロボと一緒に地蔵堂という謎の組織の依頼で、非日常な事件に巻き込まれることで「大人になるってどういうこと?」「世界って何?」ということを知っていく話で、それによってニコは結果として大人になってしまうんだよね。
ニコは普通の大人になんかなりたくないと思ってんだけど、事件で出会う人はみんな変でダメな大人ばかり。そして最後にニコが思うことは「本当にそれでいいの?」
番組の作りとして毎回最後にサブタイトルが出てそれにニコの心の声が被るんだけど、サブタイトルはその話のゲストの名前。ニコの言葉はいつもその人の落ち着きどころに対しては「よかったね」と思いながらも、多少の毒を含んでる。これはどういうことかといえば、たぶんそのゲストの生き様に対してのダメ出し、あなたは大人なのに本当にそんな生き方でいいのか?という問いかけだと思うんですよ。(録画消しちゃって確認できないんで、自分の感想の印象頼りですが)
それは元々ニコがそういうキャラであるから成り立ってるし、世界の仕組みが判ってない子供だからこその問いかけなんだけど、それだと最終回の「ロボ」はロボに対する「それでいいの?」という問いかけなんだよね。
「私を救えるのは宇宙で私だけ」であるはずだから、その自分が自分を救おうと思わないかぎりいつまで経っても自分を救ってくれるヒーロー(自分自身)は現れない・・・ということを暗に仄めかしてるんだよね。だからロボは、ニコから見たらいつまでもヒーロー(マックスロボ)に憧れる子供のまま。
この一連の出来事でニコといる間だけはロボは「呼べばすぐ来る」ニコのヒーローだったんだけど、プッチーニの件でニコはロボがヒーローじゃないということにも気がついてしまったんじゃないかなあ。ロボはヒーローに憧れるただの子供だったんだよな。(このときは昭子がヒーロー)


真境名の言ってることは常に正しくてこの世の真理なんだけど、その真境名によってこの世界とはどういうものか、大人になるってどういうことかをちらちらと垣間見せられて、その不条理さやいい加減さを知り、逆に大人になることの哀しさも知ったニコからすれば、いつまでも大人にならないロボはただの非日常の物語の登場人物でしかなく、地蔵堂という「おとぎ話を成立させてくれる装置」が無くなったらキレイさっぱり忘れてもいい存在でしかなくなってたんだよね。
だからロボとニコは「ピーターパン」と「ウェンディ」なんだけど、冒険を通して大人になっていくウェンディといつまでも子供のままのピーターパン。最後にロボが子供たちを従えて遊んでるとこなんかまさにピーターそのもの。「永遠の別れ」は二度と同じ場所に立てないってことで、もう二コはネバーランドに行くことは出来ないし、行く必要もないんだよ。
大人になりたくて、大人になってしまった二コからすれば、大人になりたくないと思うロボは「可哀相な人」とも見えるわけで、二コが自分を自分で救ったと思ってるならば、それにも気がつかないロボには哀れみしか感じないんではないかな。でなければ街で見かけたロボに声を掛けられないなんてこともないだろうし。ただそこに「子供のままのロボがいる」ということだけを「良い想い出」として、ダイヤモンドのように大事にしたいと思う二コはもう子供じゃないんだよな。
判りにくいのは通過儀礼であるならば、通り過ぎた子供時代(ロボ)は夢物語として否定しなければいけない(子供時代の「良き想い出」としてね)、ニコの物語としては何となく否定してるのに、このドラマ自体がロボを肯定してるというのがマズイんじゃないかなーと。ピーターパンの物語がその辺を感じさせないのは、大人になったウェンディが出てきて「一緒に行けない」ってハッキリ言うからだよな?


「すいか」の時は大人の基子がふと陥った自分探しだったんだけど、たまたまハピネス三茶という桃源郷に迷い込んだことで、何となく大人の夏休み的な雰囲気でリフレッシュして現実世界を生きる力を得たというお話が上手くハマってたんだよね。(ある意味「千と千尋の神隠し」と同じ構造)基子への対比としての馬場ちゃんという存在もあったし。
でもそのあとの「野ブタ。」と「セクロボ」では、あえて子供が大人になるための通過儀礼な「本当の自分ってなんだろう」的なお話だったせいか、ドラマ自体が「世界の肯定」にいっちゃうと話としてまとまらないんじゃない?という印象なのかな。ここでの「世界」って変な人が普通に生きていられる「モラトリアムな世界」なんだけど。
子供が大人になることを肯定する物語で、子供が子供のままでいられる世界も肯定するのはおかしくはないけど、描き方によっては何が言いたいのか判らないんだよね。じゃあ「どっちが幸せか」ってことでしかないし。
基本的に木皿泉ってこの不条理で、ある意味酷く生きづらい世界を肯定する方向で愛してると思うんだけど、そんな中で自分ってなんだろう?、自分と世界はどう関わることが出来るのか?という問いかけをしたいんだと思うんだよね。でもそういう世界でモラトリアムに生きるアウトローな人たちを愛してやまないのに、それを否定もしたい、むしろしなきゃ大人になれないと思う気持ちが、どうも作品としてうまく表現できないとおかしなことになるんじゃないのかなあ。
野ブタ。」なんかは顕著で、修二が大人になろうとするのを結局彰が止めてるんだもん。そしていつまでもモラトリアムな時を過ごそうというビューティフルドリーマーみたいなオチになってる。ただ修二は殻を破った自覚があるからそのうち卒業するとは思うけどね。(この場合は彰がピーターなんだけど)
木皿泉のドラマの心地よさは、本当はいつまでもいられるはずもないモラトリアムな場所にいつまでもいられるかも知れないという「幻想」を持てるってことが魅力なんじゃないかと思うんだよね。
その点で同じ日テレで似たようなテイスト(スタッフは違う)の「ギャルサー」が、最終的にそれぞれの居場所を見つけて独り立ちしていく健全な物語を描いていたことを考えると、似てるようで全く違うんだよなあ。
描きたいことはやりようによっては両立しない問いかけじゃないから、木皿泉の持ち味を活かせるようなお膳立てかもうちょっと脚本に時間を与えないと、どうも最後はグダグダになるような気がしますよ。観念的で哲学的な問いかけはもうちょっとオブラートにくるまないと、直接的に言われても微妙な気持ちになるよ。映画とかのほうが向いてるタイプだと思うけど、それをあえて連続ドラマで見たいんだよな。