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炎神戦隊ゴーオンジャー#40「将軍フッカツ」

http://www.toei.co.jp/tv/goonger/http://www.tv-asahi.co.jp/go-on/
『戦えってことだよな、ここで‥‥この世界で』


前回あまりにもアホっぽい話だったのに、(そういやヤタイバンキもやられちゃったしな>すっかり忘れてたw)その続きなのに結構シリアスモード。体裁としては前後編だろうに、こういう話の作りって面白いなー。さすが會川さんというべきか?
 
あらかじめヒューマンワールドの烈鷹に似た「烈鷹そっくりヤロウ」を探しだしといて仕事を頼んどく雷々剱と獄々丸は抜け目ないなあ!(笑)さすがは一見協力してると見せかけて、キタネイダスとケガレシアを蛮機獣作成室に押し込められちゃうだけあるよ。あの二人より頭回るのは前回で証明済みだしw
それにしても常々思ってるんだけど、ガイアークのみなさんは、ヒューマンワールドを侵略して自分たちの物にしたいと思ってるわけじゃなくて、単に汚したいだけなのか?本当に?(笑)雷々剱と獄々丸が言う通り「せっかく手に入れた世界を汚されちゃかなわんからな」ってんならそうだけど‥‥それでいいんだ(苦笑)というかサムライワールドの人たちは、あんな狛犬モドキな格好してるのに、美意識も常識もヒューマンワールドの人間たちと同じなんですかw
雷々剱と獄々丸の巨大化は「富国強兵」(笑)「文明開化」じゃないんだ。まあ富国強兵の方がいかにも強そうだもんな(笑)
いつもの蛮機獣が「産業革命」して巨大化するわけだけど、産業革命がヨーロッパにおいての急激な近代化への社会構造の転換と考えると、富国強兵は明治時代の日本における社会の変革を表してるわけだから(乱暴な解釈ですが)、ヘルガイユ宮殿だったり貴族だったりというガイアークさんたちのヨーロッパ的な響きと、サムライワールドという日本的な概念を考えるとちょっと面白いなーw 中華なネタの時は「ブンカダイカクメイ〜」とか言うんだろうか?(笑)
そしてキタネイダスとケガレシアはちゃんと助け出されたんだろうか?やっぱり誰かもう一人、足りないような気がするよ〜、閣下ー、カンバーック!
 
とまあ今回の話は世の中の理不尽を恨む「烈鷹そっくりヤロウ」が改心する話だけど、根っからのヒーロー、走輔と殴り合いするとこがよかったなー。
就職した会社があっさり潰れて、誰も彼を必要としないからとやさぐれて世を恨むだけで何もしない浮浪者生活。確かにこんだけ構造的に不況だと他に就職の口もなかったのかもと思わされるけどさ。でもよく考えたら同じように無職でキャンピングカーで各地を転々としてるゴーオンジャーたち(ウィングス除く)と比べたら、そう大差ない生活環境だと思うんだけど(笑)
思うにボランティアで正義のヒーローをやってる走輔たちを『ヒーローだなんてみんなに褒められてるお前たちに何が判る』だなんていうニセ烈鷹の心根の問題だよな。走輔は『お前だって本当はヒーローになれるんだ』って言ってるんだし、走輔の正義の信念ってのは「誰の心にも正義の心はある」なんだもんな。
それが伝わったからニセ烈鷹も自分の心の正義を信じたんだろうし、その結果、彼は「困難に立ち向かう」という意味での「ヒーロー」になれたって事でいいんじゃないかと。
「あなたにも烈鷹殿と同じ心があったんですね」という晴之助に「そんなんじゃねぇよ」って答えるところがカッコイイ!ヒーローは人知れず戦ってこそなのですよ、人知れずな!w
 
ところでここでやはり特筆したいのは、今回劇場版と同じく會川昇が脚本書いてるんだけど、このサムライワールドあってのニセ烈鷹の設定ってどこまで考えてたんだろうって事ですよ。あとから考えたにしてもハマりすぎというか、會川昇ならではの描き方がハマりすぎてるんだよね。
というのは會川さんといえば彼が原作・構成をやった「妖奇士(あやかしあやし)」という江戸時代(天保14年)が舞台の、特殊能力を持った若者たちが幕府の密命で怪物たちを倒すというまるで戦隊モノのようなアニメがあるんですが、ニセ烈鷹が「誰も俺を認めない、俺の居場所なんかない」と言い、同じ魂があるというサムライワールドへ行きたいみたいなことを漏らすところがそのまんまこのアニメの基本枠組みというか。
妖奇士」ではこの現実世界で生き辛い人間たち(主に過度の貧困が原因)が此処ではない何処かを切望するあまりに垣間見た異界に憧れ、あちらの世界に行ってしまう、またはこの世界に徒なす存在になってしまうという話だったんですが、これってまんまこのニセ烈鷹と炎神大将軍なんだよね。
リストラされこの世界では必要とされてないと思ってるニセ烈鷹は晴之介たちにサムライワールドのことを尋ね、『そこなら俺は本当の俺になって、もっとすげえ事とかやれたりすんのかな‥‥だったら行ってみたいもんだな』というんだけど、晴之介には『人がいて、辛かったり苦しかったりすることもありますが、生きています。この世界と何も変わりません』と言われる。
妖奇士」ならそれでもこの世の辛さを忘れるために進んであっちの世界に行ってしまうところなんだけど、ニセ烈鷹は『そっか‥‥そうだよな。判ってんだよそんなことは』と納得する。
彼はまあちょっとばかし賢かった(たぶん)うえに、走輔に「お前だってヒーローになれる」と言われたことを信じたから、逃げずにこの世界でヒーローになることを選んだってわけです。自分の心の迷いに打ち勝って何かを成すってのは子供番組として全く正しいヒーロー像なんだけど、このニセ烈鷹の出した結論、『戦えってことだよな、ここで‥‥この世界で』ってのは、「妖奇士」で最後に往壓が出した結論「ここで生きていくしかないんだ」と全く同じなんだよね。
誰にも必要とされてないって事で現実から逃げて異界に呑まれそうなヒロイン・アトルを、自分が必要だからここにいろと引き止めるのが"誰かを救うヒーロー"としての往壓なんだけど、実は自分が一番誰かに必要とされていると知る、そして人はどんなに辛くても「ここで生きていかなければならない」と悟ることも人の生きる道だと。
最後の締めのゴーオンジャーとの別れの時に、晴之介が「烈鷹そっくり殿がサムライワールドに来られたいと〜」って言ってたけど、子供にはそういう大人の心の変遷が判らないものだと言う描写は結構好きです。走輔が「あいつは来ねえよ」と断言するとこも。
そういう意味で、この話はゴーオンジャーではあるんだけど非常に會川色の強い會川哲学に裏打ちされた、もう一人の烈鷹に似た若者の物語になってるわけですね。まさかこんな話をゴーオンジャーで世界観を崩さずに、しかもゲスト脚本家なのにやるとは思わんかった。
ちなみに浮浪者をやめて希望を胸に歩き出す烈鷹似の若者の格好は就職活動というにはちょっと派手というかエンジ色のベルベットジャケットにブラックジーンズって、それってどっちかというと素の半田くんて感じだと思うのよ。オシャレすぎ!何でスーツじゃないんだ(笑)まあ彼の話はまた別の物語‥‥とはいうけど、芸能界に行って見ればどうかなぁ?変身!(彼がヒーローヒーロー言うたびに変身すりゃあいいじゃんかと突っ込みそうになったけど、そういや乾巧は誰かに必要とされて戦ってるわけでもなかったなw)


予告。もうアニ、もとい、徳山さんの楽しそうな事といったら‥‥(苦笑)