そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

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ど根性ガエル#9,10(終)

http://www.ntv.co.jp/dokonjyo/
脚本:岡田惠和 演出:鈴木勇馬(9話)、菅原伸太郎(10話) 原作:吉沢やすみ
 
泣くなはらちゃんよりは良かった。
はらちゃんの時は単に終わらない世界=ビューティフルドリーマー肯定かと思ったけど、その物語にはもうちょっと違った先があったってことかな。まあこれならOK。
結局シャツから剥がれたピョン吉は元のカエルに戻ったけど、再び平面ガエルになってひろしのシャツの中にいるのです…という終わらない物語かよwやっぱり李さん一家だよw
でもこれって永遠のモラトリアム=終わらない物語という話じゃなくて、たぶん通過儀礼なんかしなくても子供のままでも大人として生きていけるって話だよな。むしろだから一生オタクでも大丈夫って話かとw
ひろしのいってることって子供っぽい発想ではあるけど、そういう物語もあってもいいかと思わせる何かはあった。そういう意味では会社勤めで傷ついたり、いい年なのにダメ大人を装ったりとひろしはやっぱり純粋なんだと思う。
みんな生きてていいんだよ…ってのもそうだけど、どういう形でも生まれてきて意思を持って存在してるものってのは誰かの「物語」の都合で消えていいわけないってことだよね。それが子供の通過儀礼、いなくなることによって子供から大人に成長するっていうのは物語の勝手な都合ってことよね。
喪失による成長という通過儀礼って、子供にとっては失うことで学ぶことが多いという機会の一つ、自分を取り巻く世界を認識する手段の一つではあるけど、それはあくまでも一部の「子供」にとってであって、通過儀礼の喪失もなくいつの間にか大人になってしまったひろしたちにとっては今さらピョン吉がいなくなろうが学ぶことはないという意味で、それが一つの終わらない物語の前提ってことかと。

9話の福男の話もピョン吉パンの話も話の本題には絡んでないけど(オレはそこがどうもこのドラマが日常過ぎて入り込めなかったところなんだけど)その一見バラバラな日常の中の描写が大事なドラマよねえ。
宝寿司にピョン吉パンを持ってきたひろしが、京子ちゃんのおばあちゃんと町田先生しかいないからと思って本音をいうけど、ひろしは自分があえてダメなふりをしてるって言ってるし、本音では普段は嫌ってる良い話みたいな気持ちもあるけどそれをあえて友達たちの前で表に出すのはカッコ悪いと思ってるわけよね。
たぶんひろしは何かを卒業したり物事が終わることによって成長したと思い込んで大人ぶるのが嫌いなんだろうな。いかにもな良い話嫌いだし、ダメ人間のフリしてるって自覚あるし。
そこで10話の絵本の話みたいに主人公が喪失感によって成長して終わる話を、自分で勝手に書き換えて終わらない話にしてしまうっていうのはある意味メタな視点だよね。ひろしは子供の頃からそういうメタな視点があったと。
だからファンタジーな生き物である平面ガエルが存在できるのは「ひろしがそう望んだから」に他ならなくて、そういう意味で1話で感じた箱庭感ってのは確かにあるんだけどだからといって町から出られないわけでもないのはそのせいかと。ひろしの意思で福島にも行けるし富士山にも行けると。(富士山はたぶん箱根だから両方とも被災地だよね)

だから今回の岡田さんの脚本て、そういうある程度年をとったら大人になるべき、子供から大人になるためには何かを捨てなきゃいけないみたいなことを否定したかったんだと思った。
つまり子供じみた思考や行動のまま大人になってもいいんだよっていう話というか。
現実的にオレがそろそろアラフィフだけど、まったくそのとおりだと思うもん。具体的には結婚とかして子供でもいれば(もぐらのケース)
無理矢理にでも大人にならなきゃいけないんだろうけど、今ってそうじゃなくても生きていけるし。
警察官になった五郎はちゃんと社会的に責任ある立場にいるし、ゴリライモみたいに気分や気持ち的には中学生の頃のままでも会社を経営して大人の判断ができ、社会に政治という手段で関わる事もできみんなもそれを認めてくれたってのは客観的には大人だよね。梅さんやよしこ先生みたいに独り立ちしてるいい大人だったり教師という立場であっても、結婚直前の今が一番楽しいとかいってていいし(状況的にはどうかと思うけどw)、離婚して戻ってきた京子ちゃんも中学生の頃の仲間とつるんでていいわけで。
でも子供時分と同じことしてる からといって子供かといえばそうじゃなく、みんなちゃんと大人なのよね。そう望めば。
どんな人でもどういう風にでも生きてていいんだよ。誰かのために存在してるわけじゃなく、自分がそこにいたいと思えばいていい世界。
ひろしみたいに世間や社会と合わなくても自分で自分の話を書き続ければいいだけ。というか「大人」の定義って何?っていう。(行動や思想として一番近いのはやっぱりオタクのことだよなあw)
結婚したから大人ってわけでもないし、ひろしだってもしかしたら本当に京子ちゃんと結婚するかもしれないし子供も出来るかもしれない。でもそのためにピョン吉が犠牲になる必要はないし、ピョン吉がいなくならなきゃ大人になれないわけでもないし、それでもいいって話よね。
10話は予告で見た時てっきりあのふにゃふにゃしたひろしもどきはTシャツから抜け出たピョン吉が擬人化したんだと思ったんだけど、あれはピョン吉がいないつまりこのリアルな現実世界のひろしだと。自分で自分の可能性、つまりピョン吉を殺してしまった(だからヘビのTシャツを着てた)ひろし、自分のことを信じられなかった=自分で物語を書こうと思わなかったひろしだといってるのよね。
そもそもこのドラマでピョン吉が剥がれてしまったのは、単に寿命だったのかもしれないけどそういうことよりも最近はひろしがピョン吉をないがしろにしがちだったからなんじゃね?(そんな気はする)
でもピョン吉がいなくなることを感じたひろしが「ピョン吉といる自分」を信じたからピョン吉はまた平面ガエルとして戻ってこれたんだと思う。メメント・モリか。
京子ちゃんが言うようにそもそもがありえない話なんだよね(笑)それもまたファンタジー。ああ結局そういう意味ではこれがひろしの通過儀礼ってことかもな。大事なのは死を思って生きるってことかも。それが「ど根性」ってことじゃね?だってどっこい生きてるど根性ガエル、だしw
ともかくめでたしめでたし。
松ケンのひろしもよかったけど、本当にピョン吉に満島ひかりを思いついた人は天才だなw