そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

沈黙 サイレンス

http://chinmoku.jp/
監督:マーティン・スコセッシ 脚本:ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ 原作:遠藤周作

 

遠藤周作の小説「沈黙」を、「ディパーテッド」「タクシードライバー」の巨匠マーティン・スコセッシが映画化したヒューマンドラマ。キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期の日本に渡ってきたポルトガル人宣教師の目を通し、人間にとって大切なものか、人間の弱さとは何かを描き出した。
17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師の真相を確かめるため、日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく。
スコセッシが1988年に原作を読んで以来、28年をかけて映画化にこぎつけた念願の企画で、主人公ロドリゴ役を「アメイジングスパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールドが演じた。そのほか「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソン、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のアダム・ドライバーらが共演。キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、浅野忠信イッセー尾形塚本晋也小松菜奈加瀬亮笈田ヨシといった日本人キャストが出演する。(「映画.com」より)

 
なんか久しぶりにちゃんとした映画を見たーって感じ。(エンタメバカ映画大好きだけど)
日本人もたくさん出てるし洋画なのが不思議なくらい。撮影は日本かと思ったけど台湾らしいね。
キリスト教のことは欧米人のようには理解できないし、原作は読んでないので映画との比較はできないけど、キリスト教の欺瞞を暴きつつ宗教とは?信仰とは?ということを考えさせられるいい映画だった。
原作者も監督もクリスチャンということらしいけど、だからこそキリスト教という宗教の欺瞞を洗脳的に見せながら、信仰自体は自らの心の中に見いだすものだということを上手く描いてると思う。キリスト教を否定してるようでそうでもないというか。
これは宗教と信仰の話でもあるし、非キリスト教国を野蛮だと思ってる司教たち西洋人の傲慢を論理的合理的に説明していて、オレとかキリスト教の何が嫌かって神に対する盲目的な信仰心が嫌だという人間からしたら、話の内容としてそのキリスト教が否定されるのはすごくすっとするんだよ。
通辞の、司祭たちは教えを広めようとするばかりでこの国のことは何一つ学ぼうとはしない(日本語がしゃべれない)と言うときの腹立たしげな様子、ものすごく論理的にキリスト教が何故間違ってるのかを説く井上筑後守、どう見てもロドリゴたち司祭と比べると実際はどちらが野蛮で無知なのかということを丁寧に描写してるし、幕府の側からみると宣教師たちこそただの愚かな洗脳者でしかないと現代的な目線で描いてたのが面白かった。
ベースが多神教で仏教の教えで統治されてる日本人だからキリスト教の本質がわからない(理解できない)ってのはあるけど、やっぱりキリスト教の何が素晴らしいのかさっぱりわからないよ。
あと井上筑後守は日本は沼地だからキリスト教は根を張らない、腐るだけと言うけど、まさに沼地に咲くのは蓮の花ばかり…というオチだよね。(オチって言っちゃあれか)
とにかくキリスト教こわいし日本の切支丹たちの間違いっぷり酷い。
日本人はキリスト教を変容させているということをなかなか理解できない司祭たちは、盲目的に自己の献身と犠牲こそがキリストに対する信仰だと思ってる。でもこの映画を見る限り日本人の切支丹が信じてるのは、この苦しい生活から逃避できる場所、「此処ではない何処か(パライソ)」を信じる気持ちでしかなく、だからこそ来世の救いを約束する仏教ではなく洗礼を受けたらもうパライソ(天国)にいると思える(間違った)キリスト教を唱えたいってことだよね。ローカライズが酷すぎるw
信仰が心の中にあるわけじゃないから物質的な拠所を欲しがるってのもそうだと思うし。(ロドリゴ自身が危険な兆候だと言ってる)
キリスト教布教の歴史は知らないけど、おそらく過去の司祭たちはキリスト教を根付かせようと日本人にわかりやすく言い換えたんじゃないかなあ。祈ることや殉教の意味もたぶん理解できてないしそもそもなぜ人の子イエスが神なのかもわかってないよね。(オレもよくわからない)
寺での話の仏教(神道も)において、神は太陽で毎日復活するというのがロドリゴには理解できないように。そもそも西洋でだってビフォーキリストでは太陽が神だったんだけど。
だからキリスト教弾圧は鎖国に向かってる幕府の方針としてはともかく、それ以上にキリスト教は日本人の宗教観とは相容れない、本当の神の愛を信じてるんではなく真実の神という概念がないから自分たちの都合のいいように信仰を変容させ、時には死ぬことすら神への愛だと盲信してる民衆を、幕府は恐れ間違ってるとしたんではないかなあと思ったり。だって民が死んだら年貢が取れないし国は成り立たないもんな。
そういう切支丹たちを人質に取り司祭たちを棄教させようという中で、司祭たちは何を試されているのか、神の沈黙とは何か。自分の中の大事な神への愛と本当になすべきこととは何なのかを考え続けた先にあるもの。
ロドリゴやフェレイラの棄教はそこに気がついたからだと信じたい。というか沈黙する神に真理を見いだすのはまさに仏教で言うところの悟りそのものではないかと。それは決してキリスト教を否定してるわけではないと思うのだ。あくまでも神の中に見るのは己の心(信仰心)ではないかなあ。
それはともかく、全編通してすごく腹立たしいのはキチジローで。
神に祈ればそこはもう天国(認識が間違ってる)だと信じて苦しみから開放されたい民衆も頭悪いけど、キチジローの弱さはイエスに対する裏切りをしたユダよりも悪いと思う。
許されない弱さというものはないけれど、ロドリゴを裏切るたびに告解すれば許されると思うのはいかがなものか。そういう弱さは好きじゃない。しかも棄教して日本人として暮らす、監視下にあるロドリゴに対して自分の心の救いのためだけに告解を求めるのはまったくもってキリストの教えに反してるとしか思えないのだ。
キリストの教えではそういう人間も許されねばならないのだろうけど、そうやって自分の弱さを盾にして他人を窮地に陥れる者を許すのは誰なのか。人としては許しがたいと思う以上キリストの教えは間違ってるという矛盾じゃないのかなあ。金のために裏切ったんじゃないと言いながら何度でも司祭を裏切り、そのたびに告解を求めるキチジロー。ほんと最後までムカついた。許さん。
しかし最後のロドリゴの手の中のもの、最後の最後で救われたのは確かで、やはり宗教と信仰は違うのだと思う。自らが苦しんだ末に見出した真理だからこそだろうけど、それを信じる心はとても尊いと思うのだ。