そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

ガメラ映画のカタルシス

5/17のガメラ映画感想の追加エントリー。
その前にちょっと訂正。オレはガメラリアル視聴世代と言いましたが、それじゃああまりに年食いすぎてるとパンフの年表確認して思いました。さすがにそれはない(笑)
えーと昔はどの町にも映画館があったものですが、オレが子供の頃に近所の映画館でたぶんリバイバル上映とかしてたんじゃないかな。リアルタイムで見たのはたぶんジグラで、それもたぶんロードショー公開でなく二番館か三番館上映の時期だと思うけど、その前後に何回か劇場でガメラを見てるってことだと思います。
ウチはアニメ・特撮・マンガに関しては70年代にリアル体験出来るオタク環境にあったんですが、その頃オレは小学校低学年くらいだからわりと視聴対象ドンピシャのまま大人になったオタクなんですね。(だからウルトラはエース・タロウ・レオ世代なんですよ。テーマの重いライダーとかに行かなかったのは、ひとつ下の妹と話してると単に嗜好の問題らしい>妹はわりとライダー派)
前置きはその辺で。


5/17のコメント欄の続きって感じだけどkasindouさんとはちょっと違った視点で。
コメント欄では今回のガメラに対してもう少し割りきってsandayuuさんのいう「E.T.」のようなもの、少年の通過儀礼としてのジュブナイルとして描いたほうが、ありきたりだけどスッキリするんじゃないかなという視点から俺ガメラをでっち上げたりしてましたが、基本的には今回の映画はどんな物語であってもガメラ映画だと思ってるんですね。それでガメラ映画の一番のアイデンティティ、いろいろあるとは思うけど一番大きいのはガメラが子供の味方、人類の味方であるということだし、それを誰もが知っていることだと思うんですね。


kasindouさんのいう主人公関係のカタルシスがないというのはもっともで、怪獣映画である以上(そうでなくても)敵を倒した爽快感に付加されるガメラとの一体感を、どこに持ってくるべきなのかを見失ってたといえばそうなのかもしれないですね。
kasindouさんが5/20のエントリーで書いている「対立構造がない」ということもあると思うのですが、ガメラ映画として見たときに、平成ガメラ1でのカタルシスガメラを応援するスクリーンの中と外の人々の意志とガメラ復活とが上手くリンクしてるからだけど(記憶だけで書いてるので違ったらごめんなさい)、今回この映画でやりたかった「劇中の子供たちが命のリレーをすることで、映画を見ている子供も一緒にトトを助けたような気持ちになって欲しい」という部分に、全くカタルシスが感じられなかったというのも大きなことではないかなあ。
あの描写自体についてオレがそんなに違和感を持たなかった理由はコメントにも書いたけどもう一度言うと、「逆になぜ透少年だけがトトの赤い光に気がついたんだろうと思いながら見てたんで、あのリレーを見たときに腑に落ちたというか、その辺は理屈じゃないのかもしれないです。」ということで、その辺はかなり雰囲気とか流れの中での感覚的な受け止め方なんですが、ガメラに味方をする一部の子供たちが何かを感じてトトに赤い石を届けようとした…でいいと思うんです。ただそこへの持っていき方がヒロインの扱いにしても、透の行動にしても、まずかったのは明らかだけど、それについては今回はもうパス。


ここで思ったんですが、自分がこの映画でガメラ映画としてのカタルシスを感じられなかった理由、それはガメラが自分たちのために戦ってるという描写がない、または薄いからかなあと思ったんですね。
ガメラというのは設定ではいうまでもなく地球の守護者であり意志である、それが子供向け作品への路線変更で子供の味方ということにもなったんですよね。
少なくとも平成ガメラ1ではそれは感じられたと思うんですね。(そのあとの2と3については面白いんだけどあまりガメラ映画としては好きではないので1限定で)ガメラは地球の守護者であるから怪獣と戦わなければいけない、みんなのために戦うからガメラを応援する。そこにある対立構造は人間&ガメラvs悪い怪獣なんですよね。
ギャオスの場合、かつて人間が遺伝子操作で作った地球にとっては想定外の生命体であり、しかも人間を捕食する。自然を破壊する人間なんて食われてしまえばいいというのはおいといても(それじゃウルトラの人類批判だし)ガメラは人類の味方という設定だから人類の敵であるギャオスと戦う。そこにはガメラを応援する理由がある。
ところが今回のトト映画の場合kasindouさんの言い方を借りれば、戦いたいトトと戦わせたい大人、トトが戦うことは反対しないけど戦って死んでしまうのは嫌だという透少年(戦う=自爆なのもよく判らんが)、トトが戦うことを希望してリレーをする子供たち。単純に人間を食べる悪い怪獣ジーダスに対してみんなのために戦ってといえば良かったのに、主人公の少年の立場が微妙なので(でも結局戦ってもらう)応援していいのかどうか判らなくなってるんですよね。
そしてトトが戦う理由も判らない。監督のいう「手垢の付いてない状態で子供たちに渡したかった」というなら、トトが戦う理由はガメラが地球を守る者だからじゃなく、透たち応援してくれる子供を守るために、として欲しかったところ。
そういう意味で、この映画だと透のために、または透が守るべき麻衣のために戦うといえば判りやすいのに、その辺の交流部分があまり描かれていないせいでトトが守るものがはっきりしなくなっている。トトの怒り(戦うモチベーション)は何に向いてるんだってことになっちゃうんですよ。
名古屋に向かった透が麻衣と会ってないのも意味不明。麻衣から赤い石のリレーを聞いて追いかけて行く…でいいと思うんだけど?みんなが繋いだトトの命というのを、はっきり自覚して透には受け取って欲しかったし。
この映画のやりたかったことのひとつは、見知らぬ子供たちがみんなでトトを助けるために動くと言うことだったと思うんだけど、トトは何のために戦うのか、誰のためにジーダスを倒すのか、というところがキチンと描かれてないと映画を見てる子供だってトトを応援することは出来ないと思うんですよね。オレが子供だったら、この映画のトトを応援することは感覚的に出来ないと思うんですよ。だって子供の味方だってことが感じられないから。トトはただの可哀相な亀の怪獣でしかない。
その部分がどうもすっぽり抜けてるのが、「なぜ私がガメラ!?」といってる脚本家はともかく、監督はガメラが好きなのかなあ?とオレが感じた理由でないかと。だって、そこはガメラ映画としたら外しちゃいかんとこだと思うんですよ。オレが平成ガメラの2と3が好きじゃないのもそういうところがなくなって、オタク寄りの怪獣vs自衛隊ガメラという図式になってるからだと思うんですね。
子供時代の刷り込みもあるだろうけど、そこんとこがオレがゴジラでなくガメラが好きだという理由なので、ガメラはいつでも人類のために戦って欲しいんですよ。地球の守護者として。