そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

演出について:柴崎編・田崎編

取りあえずちゃんと見返さなくても書けるから演出のことを。

ビバ!柴崎監督

43・44話は柴崎監督デビュー作ということもあって気合入りまくり、話も熱いけど演出も熱いぜ!ってことで見どころたっぷりでした。3カ所くらい合成の不手際が目に付きましたが、まあその辺はご愛嬌。
脚本・演出・役者の演技ってのは人間で言うと骨格・筋肉・血流(表皮でもいいけど)だと思うんですが、まともな人型をしてて当たり前、それが美しければ出来がいいってことだと思うんですね。そういう意味でも今回の監督の仕事っぷりは素晴しかったと思うんですよ。
まあそんな演出をわざわざ取り上げるのも野暮だとは思うんですが、まあちょこっとだけ。全部は拾いきれないけど。
 
地獄兄弟。ゼクトルのヤラレっぷりを見ながら影山の『兄貴だって昔は…』にケリをくらわす矢車。矢車にとって過去の栄光であるザビー時代を思いださせようとする影山に「キックホッパーとしてケリをくらわす」兄貴。(だと思う)
地獄弟の時とザビー影山の時で判りやすく衣装替えをする影山(笑)
ザビーゼクターは嫌そうに影山のところにやって来るけど、影山、三島みたいに無理やりキャッチして変身。
同じようにやられながら踏ん張ってるガタックゼクターと違ってさっさと見捨てるザビゼク、矢車さんを見つけてまとわりつく。(兄貴はなんだかんだいいながら実はずっと心根は正義だったか?つか本当に地獄にいる人間はあんなに「地獄」を強調しないと思うけどね)
影山の変わり身の早さと成長しない変わらなさ、これは米村さんの「人間は必ずしも成長しなくてもいいんだ」という逆説的な意味での人間の弱さを認める部分かなとも思うんだけど、ここでは関係ないから割愛。
何だかんだで影山の仇を取りに行く兄貴、変身時に上を向いてるのは今まで「うな垂れ変身」が過去の栄光を捨てきれなかった兄貴だとすれば、今回は光を見るために上を向いた新生兄貴か?明らかに今までの変身とは違う意味合いでの変身を印象づけてます。
あ、サソードが岬さんを守るシーンも長めで乃木の攻撃が容赦ないのがいいですね。これは「攻撃が激しく、その長い時間を持ちこたえる」ということに意味があるんで、これもいい。
 
天道が時空の彼方で擬態とひよりに会うところ。
天道の言葉に説得されるひよりの目のハイライトが明らかにその前後のカットと違うんですね。普段から印象としてひよりは目に光が宿ってない、いつも下向いてるからだと思うんだけど、ここでひよりが『僕は生きていていいのか』と言い、天道がひよりが生まれてきたことが嬉しいと言うところで、わざわざひよりの瞳にキャッチライト入れて光が宿っていくのを判りやすく見せてます。たぶん皆既日食の黒い太陽が小さくなって本来の輝く太陽が現れるのとも対の演出。
そのあと、天道が7年前のことを言って『帰るぞ』とひよりに手を伸ばし、ひよりが飛び込んでいく。手と手を延ばして掴み合うのは当然7年前のあの時の再現とOPのイメージシーン。脚本で指定してる可能性もあるけどわざわざOPと被るように見せてますね。
その後の天道の『お帰り、ひより』に『ただいま』と応えるひより。もうそばにいなくても大丈夫なひよりに上着を掛けてやるのは、ひよりを守っている(とはlotusteaさんとこの解釈。オイラはああ寒いからねぇ…と思ってしまったw)そばにいないときもそばにいるということかな。
影山の衣装替えと同じく擬態天道も内面が変わることで衣装替え。天道はいつも黒だからにしても、時空の彼方で会ったときは上着を着てたから、ひよりに上着を掛けてやって黒いカットソーの天道と同じなのは流れで。ただそれによって擬態天道の内面の変化を表すのは上手いなーと。
43話でも白めな擬態天道と黒めなオリジナル天道で二人が対決するときは両者同じ格好ってのもちょっと拘ってるっぽいしね。
画面分割も戦闘シーンで効果的に使われてて、今まで東映特撮ではあまり見られなかった演出法なので目新しかったってのもありますが、ちゃんと使い方として正しいですね。公式では「24」ばりのとか言われてますが、見た目は同じでもあれとは意味違いますから。戦闘シーンでは単純に情報量を多くするってこと。番組最後の奴はそれぞれの現状を見せるってことで効果的に次週への引きにすること。(こっちの方が「24」的)こんな当たり前の手法ですら今までの監督は使ってなかったというか、単にオーソドックスだってことなんだけどね。まあ多用するとうっとおしいから、たまにでいいよ、柴崎さんの時だけで。
 
天道と加賀美のことはまた別口で。(書くヒマあんのかなー)
 
で、本題(笑)
こういうね、キチンと脚本を読み込んで集中して仕事してくれる演出は、あえてやっぱりその仕事っぷりを褒め称えたいわけよ。オレが讃めても別にどうってことはないけどさ。上で言った人間の身体に例えると、本当に何てオレ好みの美形に仕上げてくれたんだろう!ってね。
わざわざそんなん言わなくていいことを枕に何が言いたかったかというと、もうカブトも終わりだし、やっぱりどうしても言っておきたいのが田崎演出のいい加減さ。
田崎監督は信者も多いんで、その辺配慮いたします。読みたくない人は読まんでよろしい。

だから田崎監督は!

とにかくオレは田崎の演出がダメなんだ(カブトにおいてはね)  ※コメント欄が大変に面白いことになっているんで、ぜひ(笑)
他の作品はともかくカブトに関してはオレにとってはどうもイマイチ感の強い田崎・鈴村両監督。鈴やんについては16話とかもひとつ16話とかいろいろ言いましたが、(戦隊だと気にならないんだけどね…)田崎監督はメインで入ってるだけに細かいとこで目に付くんだよな。
これはあくまでカブトの場合です。まあ他にもガメラとかどうにもヘタだなあと思うことはあるけど、別にいいよ。要はね、アクションシーンの見せ方とか画面構成は特に文句ないんだけど、演出がヘタなんだよ。脚本解釈については元の脚本が判らないんで何とも言えないけど。
 
通常、TVドラマを見てて(アニメもですが)特に何も引っ掛かるとこなくああ面白かった!で終われば一番いいんですよ。というかむしろそれが普通。脚本も演出も演技も完成度のレベルの差こそあれ特に齟齬がないのが普通の状態。ながらで見てるんならともかく、ある程度集中して見てる人間がアレっと思うのは何かが間違ってるからだと思うんですね。
今週のを見返す前にちょっとワケあって33話を見返してたんですね、天道がゼクターを集める話。
初見の時にもどうにも違和感があったんですが、何度見返しても納得できないのが、カブトvsガタックで天道が加賀美にゼクター集めの理由説明するところ。このエントリーはこのシーンについて突っ込みたいだけです、有体に言えば。
ザビーが逃げちゃって、カブトを止めようと割って入ったガタックvsカブトになった戦闘シーンでED主題歌を流すのは、シーンの意味としては気に入らないけどメインの戦闘シーンで流さないってのもアレなんで、これはまあ仕方がないと思うんだ。問題はそのあとさ。
なぜライダーを消そうとするのかと問う加賀美に、「人類を守るためのライダーがいる限りひよりはひよりとして生きていけないから、他のライダーを消す」という天道。加賀美『そうだったのか…』って納得しちゃってるけど、『ライダーは俺一人でいい』っていってる天道は明らかに間違ってるわけですね。狂気の正義とでもいうか、今時点だとはっきりと間違ってると言えるんだけど、この時点でもやっぱり間違ってるのは間違ってるんです。
このときの天道の言いぐさって、「アギト」でアナザーアギト・木野さんが言ってた「俺以外のアギトは必要ない」と同じなんだけど、歪んだ正義でそう言ってた木野さんと同じく天道もそうなんですね。ひよりを生かすために他を犠牲にしようとしてる。「世界を敵に回してもひよりを守る」の延長線上にある。
で、なぜか田崎はここで「勇気のアイテム」をBGMに付けちゃうんですね。
この曲、今ざっと確認したけど6話で東が天道がカブトだと知る「やはり君がカブトだったんですね」のシーン、10話で加賀美がザビーを捨てた瞬間の「俺はもっと大事なものを掴んだ」のシーン、16話で加賀美がワームを倒したけど実はカブトが倒してるシーン、17話アバンの同じシーン、の辺りですか。この曲、番組当初からわりと重要な場面、特に天道の正しさを表す場面で使われてるんですね。(どこなのか探しやすいのもそのせい。アバンでもよく使うけど)
そんな曲を無神経にも、間違ってる天道のシーンで使ってしまう田崎の演出は何度見ても違うだろ!と突っ込まずにはいられません。ていうか違和感で気持ち悪くなるくらい。完全にシーンの意味としては天道が正しいかのように受け止めてしまいますね。それは全体通しての意味でいったら間違ってるんだよな。
それを更に裏付けるのが32話の長石さんがやった、天道が加賀美に狂気の告白をするシーン。
ここで一番重要なのは天道と加賀美のやり取りではなく、天道が『ひよりはひよりとして生きていく。そのためにひより以外の全てのワームを倒す』と自分の決意を打ち明けるところなんですね。明らかに常軌を逸してるその考えこそ、天道の狂気なワケです。だから長石さんはこのセリフのところに不安感を煽るようなBGMをつけてる。それと同じセリフ言ってるシーンで田崎は「勇気のアイテム」なんだよ。
演出ってのは重要なシーンを視聴者にわからせる為のものでもあるから、そういうシーンは大抵画面的な効果を狙ったとき以外は顔アップやBGMをつける、役者に叫ばせる…と適時効果的な手法が取られるんですね。それが上手く表現できてない、客観的に伝わらないと最低限の脚本の意図するところを表現出来なかったり、シーンの意味が変わってしまうんですね。まあこんなこと言うまでもないことですが。
33話は他にも橋の上で話す天道と加賀美をやたら撮る角度を変えてポジション入れ替えをしてるとことか、何を考えてのことか意図が全く判りません。つかこれって映像物ではタブーだったと思うんですが。(一連のシーンでの登場人物の"見た目の"立ち位置を入れ替えることで、視聴者がその場面の状況をスムーズに理解することを妨げるから。映像だけでなく漫画でもそうです。逆手にとってそういう効果を狙うなら別ですが)
 

追加。

コメント欄で突っ込まれたんで追加です。続く34話のことだし。
ガタックがキャマラスワームにやられて爆死したように見えたこと。オレも爆死だと思ったんだけど、カブトのハイパークロックアップによって巻き戻されてしまいました。
"意図"としてはハイパークロックアップの能力を見せること。起こったことを巻き戻す、というか時間を遡ってなかったことにしてしまうのかな?その後そのことに触れてない以上、その時の記憶とか、本当にあった出来事だったのか、時間が戻る影響についてとか全く判らないんですが、とにかくハイパークロックアップとはたとえ死に到る現象でもそれが起こる直前に戻すことが出来るということになります。
でもここでそのための描写材料として「ガタックを爆死させる」ということの"意味"が判らないんですね。
ガタック爆死」の描写をすることによって、その能力よりもガタックが爆死したというインパクトの方が大きくなって、別の意味合いを持つんですね、あのシーンが。
もし単にガタックがキャマラスワームの攻撃で屋上から落ちただけだったらどうか?落ちたくらいじゃライダーは何ともないだろうけど、ようするに単なる「起こってしまった不利な状況を打破するアイテム」ですむんですよ。でも「爆死したガタック」だとどうなるか?あちこちで多少ならずとも物議を醸したように「死んだかどうか」が問題になる。そしてそれはあの話にとってその意味は全くない。(そういや22話の加賀美の死と再生も田崎だなー)
描写的に脚本指定ということも考えられるけど、それであっても前後の話の流れを考えるとやっぱりその意味はないんですね。もしこれがインパクトだけを狙った「爆死」であるとすれば、脚本にそうあってもフォローが出来なければ演出段階で変更するべきだし、「爆死」させるんならそのフォローもするべきだと思うんですよ。(どっちにしてもここは「蓮華がハイパーゼクターを盗んで天道に渡す」というシーンなので、ガタック・加賀美が死ななければいけない状況ではない)
その客観的判断が出来てない以上、田崎の演出がヘタだった、練り込み不足だった…という結論になっても仕方ないと思うんですね。
 
11・12話についても某所に流出した井上さんの脚本を見ると田崎監督の演出で随分変わったことが判ります。
解釈の範囲が広い井上脚本であるとしても、あの断片的な脚本を見るかぎり、普通に撮ってれば特におかしいこともなく普通にまとまる話だったと思います。なのに田崎監督は絵面的に面白いからだと思いますが、大介が集めてくる女性をヤンキーと女子プロにしてしまった。このせいでその女性達がそういう種類だということで余計な意味合いが出てしまって、当初の話の意図と変わってしまったんですね。オレは最初そこが気になってしょうがなかったんですが(だって天道ファンだから)脚本見て納得でした。だからあの話は天道がスクラッチということよりも、実はああいう女性達がってことの方が気になってました。
田崎の演出って元の脚本の意味合い自体を変えることが多いんですよね、しかも悪いほうに。(だって絵面優先なら内容が犠牲になるってことだよな。この人両方ともを取れないのにやっちゃうんだもん)
あと単純に演出に失敗してる28話、ゴンと大介の話の最後、サルの店内からハイパーカブトのシーンに移る手法。
ああいう場面転換があるのは知ってますが、それを無理やりあそこでやる必要はないなと。これは単純に演出とはカッコイイ画面を見せることではなく、まず第一に視聴者に何が起こってるのかを伝えるという基本的なことをおろそかにした結果ですね。
あそこは例えばゴンと大介を見る天道のカットのあとにワームが出たと言うことを知らせるカット(例えば加賀美とかカブトゼクター)を入れるだけでいいんですね。そしたらサルの店内からモーフィングでワームと対峙してる外のシーンになってもそんなに違和感がないはずなんですよ。
この回は他にもドレイクの攻撃を倒れ込んで避ける天道とかおかしなことをやってくれてるけど、もうそういうレベルのとこには突っ込みたくないんで、パス。
まあ田崎監督の演出が全部悪いってワケじゃないけど(マコトワームのところなんかはわりと好きだし)、オレはどうにも今回カブトでの仕事は全くピンと来ません。一度流れちゃったドラマは取り返しがきかないんだから、もう少し集中して考えて下さいって感じ。
 
そもそも放映当初からガッカリさせられたのがOP演出なんですね。
実はオレは田崎監督の仕事で一番好きなのは龍騎のOPなんですが、あのOPの「顔にモザイクをかけた一般人に混じった主人公たち」という描写に非常に感心してたんですね。誰がライダーになるか判らないということを端的に表してるなあと思って。
ところがそれと同じ手法をもっと意味合いとしては低いレベルでやったのがカブトのOP。確かにワームは一般人の誰に擬態してるか判らないけど、意味としては龍騎の時みたいに深い意味が在るわけではなく、単に表面的な映像としての意味だけ。それなのに同じ手法をとってしまった田崎監督のいい加減さがどうにも。なのでオレ的にはカブトのOPは龍騎と555の寄せ集め…くらいの認識なんですね。期待してたのもあって、以外とこの人手の内少なかったのかーとガッカリ。しかも今見ると意味としても間違ってるところあるよな。(「掴み」としては機能してるんで、いいやってことにしました)
結局さ、実力が伴ってないってことじゃなく(実力はあると思いますよ)どうも真剣にやってるとは思えないのがそういう読み込み不足、集中力不足になって現れてるような気がするのがもどかしいというか、真剣にやって下さいよってことなんですね。
22話(加賀美ガタックになる&坊っちゃん誕生パーティの話)の時に公式に書かれてた、2本分46分の作品にカット部分が20分もあったなんて、バッカじゃないのって感じです。多少余分に撮ったりどうしても入らなくて切ったり、むしろ切ったほうがテンポが出てよくなるってこともあるだろうけど、20分もいらないシーンがあるってのは、それこそ最初の演出プランの練り込み不足なんじゃないの?といいたくなりますね。そこにかかった労力その他諸々を考えると余計にさ。まあ内情は知りませんが、単純にあの話の内容と20分カットってことで言ってるだけですけどね。
まあ言いたいことはもっとあるんだけど、こんなもんでいいや。いろいろ溜まってたんだよ、田崎にはさ。(役者さんたちに慕われてるとこみると、きっと現場ではいいアニキ監督なんだと思いますが)