そこがミソ。-ドラマや特撮感想などを気ままに

ブログ、感想は見た日の分にアップしたいので過去ログがいきなり埋まってることもあるってよ。

Q10#1「この地球上に自分より大切に思える人なんているんだろうか?」

http://www.ntv.co.jp/Q10/
脚本:木皿泉 演出:狩山俊輔

しょっぱなの平太のモノローグからし木皿泉ワールド。現在進行形の物語のはずなのに、すでに終わった過去を思い出しているような突き放した現実感の無さとノスタルジックさ、そのくせ内面にどっぷり入ってくるような痛さというか、でも後味は悪いくないんだよな。むしろ心地いい不安感の中で平太に共感する感じが気持ちいいんだけど、そういうとこがほんとに独特だよなあ。
『本当にそうだったらいいよな‥‥大声で叫ぶと必ず誰かが助けに来てくれる。本当に、それが人間のルールだったらいいよな』by藤丘誠(柄本時生
現実はそうじゃないから‥‥というより、本人ですら何を助けて欲しいのかもわからないから叫びようがないし、周りも助けようがない閉塞感。他人の異変に気づいていながら気付かないふりをしてあえて触れないのは、冷たいのか優しいのか。それは誰も教えてはくれないけど、自分から働きかけなければ物事は変わらない。気づいて欲しくて何かをしても、気づいてくれる人がいなければ何かをしたことにもならない、ただひっそり存在してるだけ。
でも無駄と思えることでもやってみれば何かの偶然と必然で思いもよらぬことが起きるかも知れない、世界の繋がりはそういうふうに出来ている‥‥という話か。ああこういう話好き。
それが深井平太(佐藤健)にとっての「恋」みたいなものになるかも知れないけど、それは親友の久保武彦(池松壮亮)のちょっとした変化がなければ気づかなかったかも知れない感情なんだよな。
Q10・久戸花恋(前田敦子)のスイッチは押さなきゃ動かないんだけど、平太がそれを押したのは偶然でもQ10に恋するのは必然で、それに気づいたときに「世界」の意味も変わるってことが、子供の頃、周りの人の気持ちや状況に押しつぶされて世界の滅亡を望んでいた二人に「自分が死んでもこの街はずっと続いて欲しい」と思わせる何かかもしれないんだと思う。
平太と久保の鉄塔で「世界」の紙切れを見つけるシーンはキレイでよかったんだけど(木皿ワールドだとあれはまんま「自分を取り巻く世界に気がついた」っていう認識なんだろうなー)、校庭で大声で叫ぶところで何だか泣けてしょうがなかったです。なんだろな、自分の存在を主張することと世界を認識することは繋がってるという、そういう発見の美しさかな。
大声で空に向かって助けを呼んで、机でSOSを描いて、ヘリコプターは確かに来たけどその影響には言及しない、「世界が変わるかどうか」より「本当にヘリが来た」ということの方が重要だというのも、やったことの結果をそれぞれどう受け止めるのかってとこで想像の余地を残してる描き方とか好きかな。クラスの皆が意味もなくあれに賛同するってのもいいし。多分意味があるとかないとかじゃなくて、それによって「何かが起こる」ってことが楽しいし面白いっていうそういう感覚?
いろんなことを諦めて気付かないふりしておとなしく生きようとしてる平太と、死ぬということを達観してるのにそういうことを面白がってる久保との対比もなんかバランスとしていい感じ。
同じだけど一人ひとり違うっていうことの意味を、文字とか死んだ熱帯魚とかで意味深に見せるそういう視点は木皿っぽいし。
感触としては野ブタ。よりはセクロボっぽい気がするなあ。日常の何かに気がつくことによって世界の見え方が変わっていくっていう物語かなあ。どういう展開になるんだろう。
 
タケるんはさ、なんか演技の質が変わった?
最近見たBECKがちょうど1年前の撮影で、その後はずっと龍馬伝だったはずだよなあ。そのせいだろか、BECKとは全然演技が違ってるように思えるよ。それとも平太のキャラのせいかなあ?
このドラマの主役としては正直若干力不足さは見えるんだけど、それでもちゃんと木皿ワールドにはハマってるし、こういう心の中に不安感を持ちつつそれを隠してやり過ごす、自信がなくはないんだけどなんとなくオドオドとひっそりするのが処世術みたいな役は、タケるんの雰囲気にはとても合ってるから見ててスゲー楽しいw ただやっぱ池松くんとか時生とか細田くんとかのあの中にいると‥‥ってだけねw そういや賀来くんもけっこう上手いもんなー。
野ブタ夏木マリとかセクロボの浅丘ルリ子みたいなキャラがいないから、というか薬師丸ひろ子の教授はまだちょっとキャラのヘンテコさでは弱いというか(パン作るのは意味なく良かったけど)、そのせいでロボットはいるのに変な非現実感はないんだけど、自分と世界の認識の話で閉じてるってだけでなんとなく非現実さを感じさせるところがなんともたまらん。
木皿ワールド云々っていってるけど、日テレのこの路線、ギャルサーにしてもスクラップティーチャーにしても日常の中の違和感から自分と世界の存在の認識をする話っていうのが好きなんだけど、木皿泉の世界はより明確な閉塞感=個人だという認識があるから、外の世界に対しての自己の発見が通過儀礼化してるような気がするなあ。